仏教の流れ その2

般若経

 大乗仏教を語る上では般若経摩訶般若波羅蜜経 prajna - paramita - sutra)を欠かすことはできません。それが「大乗を最初に宣言した経典であり、名実ともに大乗仏教の先駆を果たした」(岩波『仏教辞典』)ものだからです。
 般若経とは単一の経典の名ではなく膨大な文献の一大集成の総称です。漢訳で数えても「大正新脩大蔵経」の場合で四十二篇もあります。中国では古くからその主要なもの十篇を取り上げて「十本般若」と称します。とは言えその大部分は「大般若経」とそれに含まれる部分の特殊名となっています。

《 十本般若 》
  「小品般若」 (『大般若波羅密多経』第四会)
  「大品般若」 ( 同、第二会 )
  「仁王般若」
  「金剛般若」 ( 同、第九会 )
  「般若心経」
  「濡首般若」 ( 同、第八会 )
  「文珠般若」 ( 同、第七会 )
  「勝天王般若」 ( 同、第六会 )
  「大般若」 (『大般若波羅密多経』)
  「理趣般若」 ( 同、第十会 )

※「会」とは「会座」の意で、仏が教えを説く会合をいいますが、中国では内容に応じた分類として「大般若経」が第一から第十六会に分けられています。訳者や、訳出の時期は多様です。

 この中の「小品般若(八千頌般若)」に「大乗」の語が初出(と昔の本にはでておりましたが、現在は小品系と呼ばれる「道行般若経」の最初の部分が最古と決着がついたそうで、そこに「摩訶衍(=大乗)」の言葉がある)ということです。
 般若波羅蜜多経とは大乗仏教徒の理想の実現のための思想と実践を説くものであり、般若の名を(部分的にでも)持つ教典類を「般若経」と呼びます。これは新思想の表明だったのです。

波羅蜜

 釈尊が在家者として実行した修行とされるものに「六波羅蜜」というものがありました。この波羅蜜(paramita)には「究極の状態・境地、完成」とか「到彼岸」などという意訳もあります。その六種とは、布施(dana)・持戒(sila)・忍辱(ksanti)・精進(virya)・禅定(dhyana)そして般若(prajna 完全なる認識=智慧)であり、もともとはこの同列の六支和合が目指されたものです。
 しかし般若経典は、この般若波羅密を六波羅蜜の根本、五支をそれぞれ波羅蜜まで高める最も重要なポイントをなすもの(全体を統括したもの)と位置づけます。それが釈尊の在家時代の修業(実践)の眼目だとした解釈がなされるわけです。 →「菩薩の実践の総ては、ここに統一される」


仏道の為の実践・菩薩の実践を波羅蜜と名づく」(『大智度論』)

菩薩

 それではこの菩薩(bodhisattva 菩提薩)というのはどのようなものでしょう。その言葉は bodhi + sattva から来ていて、前者は「悟り・目覚め」後者は「存在する者・いきとしいけるもの・意識ある生き物・勇者・有情・有心」の意味があります。(sattvaの旧訳は衆生です)
 それは「悟りを求めている有情で、しかも悟りを得ることが確定している有情」とも「悟りを得ようとしている有情(衆生)」とも解釈されますが、大乗の教義的解釈では

 悟りの真実を携えて現実の中に降り立ち、衆生のために実践(慈悲利他行)し、悟りの真理によって現実社会の浄土化に努める者のことをいう

 とされます。
 三乗という言い方があります。この「乗(ヤーナ)」は大乗の乗で「衆生を悟りに導いて行く乗り物」の意です。大乗の言い方ですがこれらは

  • 声聞乗・小乗 「四諦の理」を知ることによって悟りへ →阿羅漢(迷いを断った者)へ
  • 縁覚乗(独覚乗)「十二因縁」を知ることによって悟りへ →辟支仏(独り悟る者) へ
  • 菩薩乗・大乗  「六波羅蜜」を修業することによって悟りを得る →成仏が目標

 と位置づけられまして、その目的は仏陀のまねびから仏になること(成仏)とされているのです。
 ここに「凡夫の菩薩」の出現があり、信仰の仏教が始まるといわれるわけです。菩薩とは人が仏に近づくための遠い一階梯と言えるかもしれません。

大乗仏教の特色

 これはいわゆる「小乗」との比較でみるとわかり易いです。もともと「小乗」的仏教の改革運動として出てきたものですから。
 まず「自利利他の教理」という主張がなされています。これに対して「小乗」は自己の救済に専心するものです。次に「在家と出家を一貫する仏教」という面が挙げられます。「小乗」は出家主義の仏教でした。在家には最終的な救いは与えられなかったのです。また何より大乗仏教釈尊の在家時代の修行(六波羅蜜)を通じて成仏を目指すものです。「小乗」では阿羅漢がその理想であり目的でした。
 そしてこうしたことから大乗仏教は「賢愚・善悪の人々を併せ救う広い立場の仏教(慈悲行であり「行」とともに「信」をも重んじるもの)」として発展します。これは仏身論の発達といわれますが、要するに救済者としての仏陀観が重きをなすようになったということです。対するに「小乗」では仏陀は導師に留まり「法」という原理が重んじられるのです。


行の仏教は難行道に、信の仏教は易行道に通じます。これは総ての人を救いもらさないという大乗の理想によるものです。
 また総ての人が「菩薩」になり得るという信から、成仏の保証のない凡夫でも菩提心をおこす(発す)ことによって「我は菩薩である」と称し得ることにもなります。菩提心を発すとは、釈迦菩薩の歩んだ道と同じ道を自己もたどろうと六波羅蜜を実践してゆく決意をすることです。(ただし後には、意志の弱い者でも成仏を目指せば菩薩であるとされるようになります)

「空 sunya」の思想(教理)

 「般若波羅蜜とは、一言で表すならば智慧の完成であり、その内実を空の思想が支える」(岩波『仏教辞典』)と言われます。この空とは、般若波羅蜜(の境地)に達したとき開顕される真理であり、それは「無所得・空」の世界の認識(空智)言い換えるなら「空性 sunyata」の認識です。(「空」〜ゼロ・零。「空性」〜空なる状態・性質。ただし「空」≠「無」)
 後の中観派における「空」は「縁起」の理法に対する大乗の新しい表現とされます。この存在としての「空」の捉え方ではそれを「変化の媒介性」(≠「虚無」)としているようです。全ては関係性に解消されるが故に実体とはみなされないということのように私には思えます。
 それを「転換の論理」と捉え、排中律をこえるとも言う方もおられます。
 ここらへんは教義の問題ですので、あまり深入りしないでおきましょう(笑)興味のある方はぜひご自分でお調べください。以下に参考文献を並べます

 参考文献
「大乗仏教の教理と教団(平川彰著作集第5巻)」平川彰 著、春秋社、1989.
「講座・大乗仏教大乗仏教とは何か」平川彰・梶山雄一・高崎直道 編、春秋社、1985.
「講座・大乗仏教 2  般若思想」平川彰・梶山雄一・高崎直道 編、春秋社、1985.
「講座・大乗仏教 7  中観思想」平川彰・梶山雄一・高崎直道 編、春秋社、1985.
「般若思想史」山口益 著、法蔵館、1978.
「龍樹・親鸞ノート」三枝充悳 著、法蔵館、1983.
「アジア仏教史 インド編 大乗仏教中村元・笠原一男 他 編、佼成出版社、1986.
「仏教経典の世界 総解説」石上善應 他 著、自由国民社、1990.

 ※昔レポートを書いたときの参考文献をそのまま挙げておきます

最後に

 何か初期の目的(妙な記述への反論…の試み)はどうでもよい感じで書き連ねてしまいました。元となったレポートは般若経について調べたものです。日記でまとめた般若経以外の記述は、お恥ずかしい話ですがかなりの部分『仏教辞典』に頼ってしまっています。いろいろ調べる時間があればよかったのですが…。


 大乗仏教宗教改革だという視点が当時の私にかなり興味深かったのを思い出しました。大乗非仏説などをもってきて今の仏教を「原始仏教とは違う」とか「仏教ではない」などと一知半解に責める方は今もおられます。しかし仏教が「救済宗教」となり世界に広まったのは、それがこの大乗仏教という新たな存在に生まれ変わったおかげであるということは見逃せない視点だと私は思っています。

おまけ(「般若心経」訳)

《 「般若心経」現代語訳 (岩本裕による) 》
一切を知りたまう佛に礼拝し奉る。
聖なるアヴァロキテーシュヴァラ(観世音)菩薩が、深遠な理智の完成を目指して修業したとき、われわれの生活をつつむ精神的・物質的なあらゆる要素が五種あることを観察し、しかもそれらは、相互に依存して存在することを認めた。
さて、シャーリ=プトラよ、この世においては、眼に見えるもの(色)はすべて実体がない(空)のであり、実体がないということこそ実に眼に見えるもの[の本性なの]である。すなわち、実体がないということは眼に見えるもの[の本性]にほかならないのであり、眼に見えるものは実体のないものに過ぎない。眼に見えるもの、それは実体のないものであり、実体のないもの、それが眼に見えるものである。われわれの感ずるところ(受)、心に思うところ(想)、心のはたらくところ(行)、判断するところ(識)、これらもまさしく同じである。
シャーリ=プトラよ、この世においては、一切の存在は実体のないことを特徴とするが故に、それらは生ずることもなければ、滅びることもない。汚れてもいないが、さりとて清浄でもない。また、減りもしなければ、増すこともない。
したがって、シャーリ=プトラよ、実体がないということの中には、われわれの眼に見えるものも、われわれの感ずるものも、われわれの心に思うものも、われわれの心にはたらくものも、またわれわれの判断するものも存在しないのだ。さらに、眼・耳・鼻・舌・身体・心という感官(六根)もなければ、これらの感官の対象である眼に見えるもの・声・香り・味・触感・現象的存在(六境)もない。眼の対象となる世界もなく、ないしは意識の対象となる世界に至るまで[の十八界]もない。
また、真理をさとる神聖な智慧(明)もなければ、根本的な無智(無明)もない。神聖な智慧が無くなるということもなければ、根本的な無智が無くなるということもない。以下、老死もなければ、老死が無くなるということもないというに至るまで[の所謂十二因縁]もない。苦悩(苦)もなければ、苦悩を生ぜしめるもの(集)もなく、苦悩を滅ぼすということ(滅)もなく、苦悩を消滅させるに至る道(道)もない。
智慧もなければ、智慧の取得ということもない。もともと、取得した状態というものがないからである。
菩薩の修業する理智の完成に帰依するならば、心になんのわだかまりもなく暮らすことができよう。心になんのわだかまりもないから、怖れることもなく、物事にわずらわされて心が動転するという状態を脱け出して、究極の「さとり」に到達することができよう。過去・現在および未来の三世に属する一切の佛は、理智による完成に専念して、この上なく完全な「さとり」を達成したのである。
したがって、人は理智による完成の偉大な呪文を知らねばならぬ。この偉大な呪文は、無上・無比の呪文である。それはあらゆる苦悩を静める呪文であり、虚偽でないが故に真実の言葉である。この呪文は理智の完成を目的として宣べられた。その呪文は、次のようである。
平安の境地にはいった者よ、平安の境地にはいった者よ、彼岸に行った者よ、彼岸に集まり来た者よ、「さとり」に到達した者よ、幸いあれ。

以上で『理智による完成の心髄』が終わる。


《 「般若心経」漢訳 》
摩訶般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
 舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是。
 舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界。無無明、亦無無明盡、乃至無老死、亦無老死盡、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故。
 菩提薩☆、依般若波羅密多故、心無★礙、無★礙故、無有恐怖、遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
 故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦。
 菩提薩婆訶。般若心経。


(☆は土へんに垂 ★はあみがしらに圭)
(※舎利子〜シャーリプトラは舎利弗とも言われ、釈尊十大弟子の一人です。智慧第一と言われました)
(※アヴァロキテーシュヴァラの漢訳に「観自在」と「観世音」の二つがあります。訳す時期によって底本の原語が異なったものと考えられています…AvalokitesvaraとAvalokitasvara。両者は同じ存在です)