衆愚政治

 私は帰省していた間、全く新聞も見ず、ほとんどテレビも見ず、ネットには数分つないだだけという状態でしたので、却って自分の中で社会の動きに対して良いインターバルが置けたと思っております。読んでいたのは実家に置いていたSF(笑)と携帯していた本を数冊だけでした。
 帰ってから、いつも読ませていただいているブログなどの過去記事にもまだ全部追いついてはおりませんが(わんこのことなどもありましたので)、一つ書いて置きたいなと思ったことがあります。それは「衆愚政治」のことです。このごろの政局に絡んでこの言葉をブログ上などで散見するようになりました。どうもこれを使っておられる方々は、「愚民が扇動され、それによってなされる政治」というイメージで使われていらっしゃる方が多いご様子。
 もちろんそういう意味を与えて使われるのは結構なのですが、それならば歴史上いわれるアテナイの「衆愚政治」とは一線を画していただきたいと思います。


 アテナイ民主主義の歴史は「第一人者」排除の歴史でした。それは市民の「平等」を求めるあまり、少しでも衆に優れて目立つ者を嫉視してつぶしてしまうものだったのです。「衆愚政治」とはもともとこの文脈で使われるはずの語で、アリストクラシーの対義語なのです。アリストクラシーは通常「貴族政治」と訳されますが、これは「優れた人」の存在を認め、その人の指揮・指導によって行われる政治を言います。それゆえ衆愚政治の悪いところは、まさに「平等」を言い「優れた人の存在を認めない」ところにこそあると考えねばなりません。


 アテナイ民主制の基盤を作ったソロンは、改革の後直ちに海外へ旅立ちました。賢い選択だったと思います。ソロン不在の内乱を制したペイシストラトスは半世紀に渡って独裁制を敷きますが、結局それは恐怖政治につながり、人々の間に極端なアリストクラシーへの拒絶感を生みます。それゆえ独裁制を倒したクレイステネスの下、「陶片追放令」という奇妙な法律が制定されるのです。この制度は「匿名」で指弾され、それが住民の意思の過半を占めた人間を追放するというものであり、富や権力、名誉や実力が抜きん出ていると思われた者が、それだけで10年間アテナイに居住することができなくなるというしろものでした。ひとえにこれは「独裁制」を恐れて目立つ者を葬り去るためにつくられた法律といってよいでしょう。


 アテナイの「平等」は、結局非難と中傷の政治を生み出してしまいます。また「第一人者」が追放されるとなると、政治は二流の人物が担当することにもなります。またこの人が政権を持つことによって嫉視されれば、結局この人も追われる立場となり、次に三流の人間が登場するということになるのです。優秀な人物は、自分が優秀と思われること自体が身の破滅です。単なる「嫉妬>煽り」もしくは「策略」によってそういう人が次々に姿を消す政治とはどのようなものになるでしょう。結局それが「衆愚政治」と蔑んで言われるもとになっているのです。


 おそらく常にいかなる局面においても優れた人などいないか、あるいはいても一時期と考える方が正しいのでしょう。それゆえアリストクラシーを無条件に信じるとか、独裁制を永続的に認めることはできないと私も考えています。しかし同時にある分野に長けた人の存在も認めておりますし、そういう人が「嫉視」によって排除されるような「平等」な世界もまた私にとっては忌避したくなるような世界です。この意味で「衆愚政治」はいけないという議論が行われて欲しいと個人的には思っております。


 一言でいうと、もともと衆愚政治とは平等に極端にこだわる民主制支持派が生み出した足の引っ張り合いの政治のことを指すということです。

余談

 さて某所で小泉氏の解散時の演説をヒトラーになぞらえている方がいました。ご本人は「小泉演説に心動かされた人々をヒトラー演説に感動した人々になぞらえた」などと申されておりましたが、どこに違いがあるのか今ひとつわかりませんし、私はここに衆愚政治の臭いを感じています。この方は単にヒトラーを持ち出して小泉演説を貶めたいだけなのではないかという疑念が私を去りません。独裁者としてのヒトラーの名前を出して「目立つ」小泉氏の足を引っ張るという私の邪推が少しでも当を得ているならば、それは結局衆愚政治の方向へ向かう行為に過ぎないでしょう。
 ヒトラー演説の怖いところは、彼が人々の望むものを与えた(そして制限のない権力を得た)というところにあると考えます。つまり第一次世界大戦に敗北し、プライドと目的を見失い、巨額の賠償金に押し潰されそうになっている「逆境の民族」に対し、独特な選民思想と民族的使命観というもので「挽回」の契機を与えたというところにこそ怖さがあると思うのです。それが真に人々の望むものであったがゆえに、ヒトラーは合法的政権を得ますし、彼が相当非道な行為を行ってもそれに異議を唱えることを難しくしていたのだと考えます。悪質な「抱き合わせ販売」という面こそがヒトラー演説のポイントではないでしょうか?
 ひるがえって小泉氏の演説は、そこに類似の点があったでしょうか?彼は単に潔さを強調し、選択してくださいと述べただけなのではないかと私には思えます。それゆえそこにある種の煽りがあったにせよそれはヒトラーのものとは全く異なるものであり、小泉氏を独裁的と呼んだりヒトラーと重ねて見る見方には妙な悪意があるとしかとれないのです。


 いずれにせよ「愚かな(大)衆」というものを「煽る」という政治形態は、もともとの「衆愚政治」とは全く関係の無い文脈にあります。あのヒトラーにしても、無垢の民衆を単に弁舌だけで煽ったのではありません。したがってなんらかの煽り政治について語りたい方は、ご自由に論じていただいていいのですが、安易にヒトラーを持ち出したり「衆愚政治」という用語を用いられることについては、若干の自制をお願いしたいと思うのです。