田中党首のド・ゴール礼賛について

 長野県公式サイトより 知事会見(衆院選について) (8/23)

…(前略)
信州・長野県知事 田中康夫


 私は日本が一つの意見以外が言えなくなるような社会を防がなくちゃいけないと思っています。今正にそうした危機にあると思っています。そのために私どもは、正にシャルル・ド・ゴールヴィシー政権というナチズムの傀儡政権を阻止するためにそうではない民主主義を取り戻すために、多分に国粋主義的であったシャルル・ド・ゴール共産党社民主義のグループや政党とも共に手を携えてですねヴィシー政権という正に言論の自由がない、居住の自由がない、あるいは正にレイシズムのような社会の権力を壊そうとした訳です。私たちは正にユナイテッド・インディビジュアルズといったのはですね一人ひとりのインディビジュアルが烏合の衆ではなくて、そうしたきちんとした言論の自由が保証される日本、あるいはきちんとした説明責任を果たしていくような権力、というものを取り戻すために、正に信じられる日本を取り戻すためにこの裏側にも書きましたが、常識をひっくり返すことにこそ夢があるという思いで逆境ファイブから始める訳です。ですからそれをですねそうおっしゃるならば自民党の中にもですね他の政党にいて自民党に入られている方がいる。民主党の中にはもっとそうした方々もいらっしゃる。そうしたらそれは寄り合い所帯ではないのか、寄り合い所帯ではいけないというのならばそれこそが恐ろしい順化主義になっていってしまうと。そして政治は私たちが今回立ち上がったのは、政治は永田町のコップの中だけの権力闘争にするのではなく、国民が一緒に判断をして参加をしていく選挙を通じてですね日本の未来を決めようということで集っている訳です。
…(後略) (傍線引用者)

 ヴィシー政権のことにつきましては、乏しい知識ながら田中党首がさらっと言われているような「ド・ゴール=善玉 ヴィシー政権=悪玉」の二項対立図式に単純にあてはまるようなものではないと考えております。
 上記引用で田中党首が述べられているのは、あくまで後付けの結果論と申しますか勝者の理論(それも粗い正義論)で、単なる思い付きの域を出ていないのではないかと…。

国民に選ばれたヴィシー政権

 まず何より忘れてはならないのは、ヴィシー政権こそがフランス国民に選ばれた民主主義的正統性合法性を持つ政権だったということです。ペタン元帥の内閣が、過半のフランス国民の厭戦感情により「休戦派」が勝利した結果の政府であったのに対し、いかにド・ゴールが正義を唱え、後付けで正統性を得たにせよ「自由フランス」はあくまで亡命者によるプライベートな政権(当時イギリスの傀儡政権であるという見方もあった政権)だったのです。

パリの無防備都市宣言

 少々話を戻しますが、第一次世界大戦でのフランスの死者は135万人とされます。この多大な犠牲の記憶もあり、また緒戦においてドイツの装甲師団電撃戦マジノ線を突破され(アルデンヌの大森林地帯からの越境)圧倒的に押されていたこともあり、フランス国民の厭戦感情は高まります。ポール・レノー政権は1940年6月10日にパリを捨てトゥールに移るのですが、このとき実はパリは無防備都市宣言されているのです。(この時の法的根拠は1907年のハーグ陸戦条約であり、それにより無防備都市への攻撃が禁止されていたのでした)そして6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城します。


※確か少し以前に「藤沢生活改め湘南生活」さんのところで、一部市民が直接請求した「藤沢市平和無防備地域条例」案のことが取り上げられていましたが、あちらの法的根拠は「ジュネーブ条約追加第一議定書(1979年)第59条」でしたね。
 パリの無血陥落で確かに街は守られたのですが、結果としてパリが破壊されなかったのは退却の際ヒトラーの命令を無視したパリのドイツ軍司令官フォン・コルティッツ将軍の判断にひとえによるものであり、無防備都市宣言のおかげでないことは明記しておきたいと思います(参照:『パリは燃えているか』)。

ヴィシー政権の誕生

 トゥールに移ったフランス政府では、ポール・レノー首相らの徹底抗戦派とペタン副首相(第一次世界大戦時の英雄・元帥)らの休戦派に意見が分かれましたが、国民感情を背景に休戦派が多数を占めます。そして1940年6月16日に内閣は総辞職し、84歳のフィリップ・ペタン元帥を首班とする内閣が成立。翌6月17日にフランスは降伏しました。
 この日のうちにド・ゴールは、前首相レノーがくれた機密費10万フランをポケットに英軍機に飛び乗ってイギリスに亡命します。


 6月22日には仏独休戦協定が締結され、トゥールからボルドーに首府を移していたフランス政府は、7月1日フランス中央部の高地の小都市、ヴィシーに更に首府を移動します(ヴィシーは南仏の温泉地で、ホテルが多いことから政庁を設置するのに便利と考えられたのだといわれます)。
 7月11日にペタン元帥は共和国大統領職を廃止し、国家主席に就任します。これで1870年から続いていた第三共和政は終わり、これ以降パリが解放されるまでの4年間がヴィシー政権期と呼ばれるのです。

ペタン元帥の言葉

 実は発足時のヴィシー政権アメリカ合衆国を始めほぼ全世界に承認されています。ヒトラーはフランスの海軍と植民地が無傷であることを考慮し、むしろそれらをフランスの手に残すという寛大な条件で早急な休戦を実現するのですが、この海軍と植民地を保有したままということが各国の承認を得られたもといでもあり、またペタンが降伏を選べた理由でもあったと考えられるでしょう。
 ドイツの占領国家の中で唯一フランスのみが「政府」の保持を認められます。ただしそれはかなり制限のかけられた主権です。パリを含む国土の北半分とボルドーを含む南西部はドイツの占領地区とされました。また北東部のアルザス・ロレーヌ地方はドイツに併合。マルセイユを含む南西部の一部地区はイタリアの占領地区。そして残った国土の三分の一ほどがヴィシー政権に任された自由地区でした。(ただし連合国軍の北アフリカ上陸をうけ、ドイツ軍は1942年11月11日フランス全土を占領しています)
 またヴィシー政府は様々な対独協力(たとえばドイツ軍占領地区でのユダヤ人狩りなども含む)を行い、それによってドイツから相応の待遇を引き出そうとします。フランス人の中にもナチスの主張に説得された者もおりますし、名士と呼ばれるような保守派はその多くがヴィシー政権に協力的でありました。しかしドイツは占領税と労働力の提供をヴィシー政権に求め、1943年1月には強制労働徴用が導入されて数十万の若者がドイツへ送られることにもなっています。

 休戦協定は締結された。戦いは終ったのだ…。我々が同意しなければならなかった条件は厳しいものである。…だが少なくとも、名誉は守られた。何人も我々の飛行機や艦隊を使用することはないであろう。我々は、本国と植民地において、秩序を維持するのに必要な陸海軍部隊を保持している。政府は依然として自由である。フランスはフランス人によってのみ統治されるであろう(フィリップ・ペタン元帥)

パリ解放

 結局1944年8月に連合軍がパリを取り戻し、時を同じくしてヴィシー政権は崩壊します。大戦前の政権を合法的に引き継いでいたペタン元帥は、政権をド・ゴールに引き継がせようとの書面を作成しますが彼は拒否します。
 またド・ゴールがパリへ入ったとき、市庁舎にいたレジスタンスを指導した共産党員のジョルジュ・マラーヌと「全国抵抗評議会」の議長ジョルジュ・ビドーは市庁舎のバルコニーから共和政宣言をすることを彼に提案しますが、ド・ゴールレジスタンスからの提案を退け、次のように言い放ちます

 共和政はいまだかつて存在しなくなったことがない。自由フランス、国民解放委員会が相次いでこれを体現してきた。ヴィシーは常に無効であったし、いまも無効である。私自身は共和国(臨時)政府議長なのだ。共和政を宣言すべき理由があろうか
 (ド・ゴール伝より)*1

 ド・ゴールは強力な反共主義者でした。レジスタンス運動での共産党の価値は認めていましたが、フランス共産党がパリ解放を企画していると聞いた彼は、それに先んじて自らの自由フランス軍とともにパリに入ることを連合国側に認めさせ、それで勝者のように凱旋して来ていたのです。


 この時パリではエピュラシオン、すなわち占領下での対独協力者(コラボ)への追放・粛清の嵐が吹き荒れます。そして「忌わしい過去は封印してしまうしかなかった。『フランス人は皆勇敢にレジスタンスを戦った』=この『レジスタンス神話』に逃げ込むことで、フランス人は未来に向かって進もうとした」のでした。

ペタン元帥の最期

 パリ撤退時にドイツ軍からアルザスの古城に連行されていたペタン元帥は、1945年4月にパリで自分の欠席裁判が行われることを聞きつけ、ヒトラーの制止を振り切って自らスイス経由でフランスに戻ります。スイス側の国境警備隊は敬礼をして元帥を見送りましたが、フランス側は敬礼もしなかったそうですし、彼はほんの小銭程度の所持金しか持っていなかったといいます。


 7月23日に彼に対する裁判が開始された時、89歳のペタン元帥は次のように陳述します。

 私は自分の力を、フランス人民を守る楯として役立てようと、あらゆる努力を重ねました。そのために私は、自分の威信をさえ、泥土にゆだねた。私は占領下の国家の首長としてとどまったのです。こういう条件下で行政を行うことがいかに困難であるか、わかっていただけるでしょうか?
 (ド・ゴール伝より)

 27人の判事による評決では、14票対13票で死刑が決定します。ド・ゴールはペタンの老齢を理由に無期禁固に減刑しますが、獄中のペタン元帥は、自分よりも自分の下でヴィシーに協力したために投獄された人々の方が心配だと語ったそうです。ペタン元帥が亡くなったのは1951年、95歳でありました。

セティフの虐殺

 ドイツ降伏の翌日、1945年5月8日に、アルジェリアのセティフで「人民解放のために、自由独立のアルジェリア万歳 ! 」と叫ぶ数千のアルジェリア人が満ち溢れます。そして乱闘が起き100人余りのフランス人入植者が殺されるという事件が起きます。
 これに対しフランス軍と自警団は強烈に報復し、急降下爆撃機・戦車・艦砲を投入してアルジェリア人を弾圧、アルジェリア人の死者は最も少なく見積もった資料で6000人、最大で4万5000人とされているそうです。
 この時、フランスの政権はド・ゴールによって担われていたということを最後に記しておきたいと思います。

おわりに

 田中党首に対してはそれほど敵意を持つものではありませんが、思いつきのようにド・ゴールを礼賛し自らをその善玉性になぞらえる彼の態度は、非常に歴史的背景を軽んじるように思えましたのでこれを書きました。
 またこれは、セカンド・カップはてな店でSoredaさんが「正邪介在法」とおっしゃる思考法をお書きになっておられましたが、それに強く触発されたものでもあることを付記しておきたいと思います。

 ※ なお注記でも触れましたが、今日の内容はこちらのド・ゴール伝という大労作に助けられなければ書けないものでもありました。お調べになったものを参考にさせていただいたことを感謝いたします。

*1:今日の日記は、こちらの労作に負うところ大です。ぜひお時間があればお読みください。とても素晴らしい内容です