スキャンダル

 「スキャンダル」という言葉の語源はギリシア語のスカンダロン(skandalon)ですが、これはもともと「罠(のバネ)」を意味する言葉です。語幹の「skand-」が跳ね上がる、跳ね返る…という意味を担います。しかしこの語は「旧約聖書七十人訳」を経てはじめて今の意味につながってくるのです。


 「旧約聖書七十人訳」とは、ヘレニズム時代に外地に出てヘブル(ヘブライ)語がわからなくなったユダヤ人のため、旧約聖書を当時の国際語であるギリシア語へ翻訳したその代表的な訳書で、紀元前三世紀から一世紀にかけてアレキサンドリアで訳された(その時の訳者が延べ七十二名であった)ものを指します。
 この七十人訳でスカンダロンは二つのヘブル語名詞の訳語として用いられます。一つは「罠」を意味するモーケーシュで、もう一つがミクショールという言葉です。後者は「躓き(つまづき)」という意味で使われるものでした。そしてこれら二つの語は「破滅の原因」という宗教的、比喩的な意味で使われることが多く、これらの語の訳語にあてられることで「スカンダロン」がその新たな意味を獲得したようなのです*1


 さてスキャンダルに「醜聞」という訳語があてられれば、一も二も無く思い起こされるのは「男女関係」の秘密の暴露というものでしょうが、もちろんこれ以外にもスキャンダルの言葉をあてて然るべき事柄は多くあります。たとえば嘘やごまかしの暴露などで、立派だと思っていた存在、あるいは立派であるべき存在が実に卑小な面を見せてしまうこと、これはまさに「破滅の原因」としてふさわしいと言えるでしょう。ご威光・立派さが感じられるものほど、そして公的な存在であればあるほど、その価値を一気に低め、今までの位置にいられなくするものとしてスキャンダル(わな)は有効に働くのですから。
(しかしそれならば、不品行な人だと思われている芸能人が不倫をしたところで、それはもともとスキャンダルでもなんでもないんじゃないかと思うのですがどうでしょうか?)


 私はネット上の最新の動きにはまったく疎い方ですが、それでもパソコン通信のころから細々とつないで来てはおりますのでぼんやりとその動向ぐらいは見えているつもりでいます。そして、ことネット空間で最も格好のスキャンダルのネタになっているのは「ダブルスタンダード」といったものなのではないかと思っています。


 実生活において私たちは聖人君子でもありませんし、それこそ細かな間違いも犯せばダブル・スタンダード、トリプル・スタンダードだって使ってしまっているかもしれません。それをいちいちあげつらうことに重要な意味があるとも思いません。
 それがなぜネット上で具合が違うのかと申しますと、次のようなことが考えられます。ネット上では、基本的に一つの「パーソナリティー」を支えるものは「発言(書き込み)」しかないわけです。そのキャラクターとどう付き合うか、どう判断するかについてかなり制限された知覚しか持ち得ません。それゆえその制限された情報の中でコミュニケーションを成り立たせるために「一貫した発言」>「一貫したパーソナリティー」が求められることになったのではないかと…。
 一つのキャラを受けとっている人たちは、突然他のキャラに変わられると混乱もします。また自分の中での相手の布置が混乱すれば、そのネット上での自分が作っている意味世界が維持できなくなることにもつながるでしょう。それゆえネットの拡大とともに「首尾一貫性」へのこだわりというものが強く広まったというのは私の仮説(思いつきともいう)です。
 そしてたとえばオフ会などで会い、書き込み以外のつきあいができた人に対しては「一貫性」の要求が小さくなります。文字情報以外の情報が得られて、通常のつきあいに近くなるからです。そしてそういう態度がネット上で見られると、それは「馴れ合い」と非難されることにもなってしまうのでしょう。
(もちろん馴れ合いのすべてがオフ会由来とするわけではありません(笑)長くつきあいができれば、それだけ情報量が増えて、やはり寛容になってしまうものだと思います。でもそれですら場所によっては「馴れ合い」に見えてしまうわけで…基準はあくまで初対面の人に対するがごとく、というのはほんとうは出来る話ではないのですが…難しいですね)


 さて個人への一貫性の要求など、場合によっては大した問題ではないかもしれません。それができずに批判を受けても、最悪一つのID、一つのキャラクターを止めてしまえばよいという話にもなるからです。(感心はできませんが、逃げが仕方のない場合もあると思います)
 しかしなかなか逃げられないものが、厳しく首尾一貫性を求められるようになれば、それはまさに「破滅の原因」になりかねません。そういう意味で一番割を食ったのが「メディア」、とりわけ朝日新聞あたりではないでしょうか?まあ少なくとも「公器」を自称していますから、厳しく「ダブル・スタンダード」を問われるという事態も仕方がないことでしょうし同情はしません。(今までちょっとダブスタに類することが多かったことがわかったので目立つのでしょう)
 また「もっともらしい」ことを言おうとする全てのものが、同じような厳しい基準でいつ批判されるかわからないという状況にもなっています。たとえば平和団体反核団体ですら、北朝鮮の問題が「躓きの石」になりかかっているのを見てもいます。


 こういう状況は当事者にとっては大変なことだとは思いますが、「もっともらしい」ことが言いたいのならば、緊張感を持って首尾一貫させるというのは当たり前の行為とも思えますし、長い目で見れば「似非善人」が数を減らすという意味で喜ばしいことだとも考えます(私は匿名の個人なので半分他人事…笑)
 それに、ダブルスタンダードに厳しくこだわるネットの世界は、実は「非を認める」「素直に謝罪する」という行為にもきちんと反応してくれます。むしろ個人的には寛容すぎると思うくらい、率直に謝ればやり直す機会は与えられるという気がいたします。この面では実社会以上に優しい世界なのかもしれません…。


 所詮は言葉だけとも言えますが、お決まりの文句で「されど言葉は大事」とも言えます。私などはあまり一貫しない日記を書いていて、いつどこに「わな」が待ち受けているかわかりません。でもそれも含めてこのネットの上の世界、まんざら悪いものでもないなと(今のところ)思えています。
 まあスキャンダルは実生活でも縁遠い人間ですので、この放言がどこまで確からしいかは保証の限りではありませんが…(笑

 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
 初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき
 (ヨハネによる福音書第一章一節)

*1:この節の内容は新約聖書学の佐竹明氏のお書きになったものを参考にしました