預言者の妻たち

 昨日スキャンダルの話を書きましたが、世の中には女性関係が多くても決してスキャンダルと取られない素敵な徳を持つ男性がおります。イスラム預言者ムハンマドもその一人だったと思います。今日は彼の十三人の妻について少し書き記しておこうと思います。*1


 預言者ムハンマドマホメット)はメッカの町で570年頃生れました。当時この町の支配権を握っていたのはクライシュ族でしたが、彼のハーシム家もその一族ではありました。しかしあまり裕福ではなかったと言います。また生時には父は病没しており、数年で母も亡くなったため祖父に引き取られ、その後叔父のところに移って成人します。ムハンマドの言行録には常に伝説の光輝が加えられ、客観的な事実を見分けるのが難しいのですが、彼がとにかく人の心をつかんで放さない魅力を持った人間であったことは確かです。


 ムハンマドの最初の結婚は25歳の頃で、お相手は裕福な未亡人のハディージャでした。この時ハディージャは40歳。15歳の年上女房というわけです。結婚後15年ほどしてからムハンマド預言者として活動し始めますが、最初の信者となり、常に彼を支え続けたのがこのハディージャです。掛け値なしにムハンマドはこの糟糠の妻を愛していましたから、彼女が619年に亡くなった時、彼は心底彼女の死を悼んでおります。それは、メッカでのイスラムに対する迫害がいよいよ激しくなっていた時のことでした。


 50歳に近いムハンマドでしたが、ハディージャの死後彼の身の回りの世話をしてくれていたご婦人の勧めで数ヵ月後に二人の女性と婚約します。一人はイスラム信徒で寡婦サウダ。そしてもう一人がムハンマドの終生の友で、家族以外での最初のイスラム帰依者アブー・バクルの娘のアーイシャでした。しかしこの時アーイシャはまだわずか6歳のいたいけな幼女だったのです。


 それから二年ほど経った622年に、ムハンマドたちメッカのムスリムは町を抜け出し、北方のヤスリブ(後のメディナ)へ集団で逃れます。これが「聖遷(ヒジュラ)」と呼ばれるもので、これを契機にムスリムは拡大の一途を辿ることになります。
 次の年、ムハンマドアーイシャたちと結婚します。この時アーイシャは9歳でした。挙式の当日母親が彼女を探しにきてみるとアーイシャはぶらんこで遊んでいて、連れ戻して顔を洗わせますがまだ息が切れていたのでしばらく戸外で休ませ、それから式場につれていったというエピソードが伝えられています。アーイシャはとても勝気な女性でしたが、かなり年の離れたサウダとはうまくやっていたそうです。


 624年、有力な信徒オマルの娘ハフサの夫がメッカ軍との戦いで戦死します。娘の行く末を案じたオマルがムハンマドに訴えると、彼は自分がハフサを娶ろうと言い、次の年に結婚します。この時ハフサは20歳ぐらいのうら若い女性でした。


 さらに一年経ち、ムハンマドはもう一人の妻を迎えます。この人もまたイスラムの戦いで夫を亡くしたザイナブという名の女性でした。彼女は「貧者の母」と呼ばれるほど心の優しい情け深い人でしたが、結婚八ヶ月ほどで亡くなってしまっています。


 また同年ムハンマドは、これも夫を戦いの後遺症で亡くしたヒンドという女性とも結婚します。この女性は美しく気位の高い人だったらしく、アーイシャは美しい新婦を見て「ひどく悲しかった、嫉ましかった」ともらしています。


 次の年、ムハンマド従姉妹のザイナブ(先述のザイナブとは同名の別人)の家を訪れます。この人は三十位まで未婚でしたが美人で、少し前にムハンマドが自分の養子のザイドに嫁がせていた女性でした。この時ザイナブを見たムハンマドは「ひとの心を変えたもうアッラーよ。褒め称えられてあれ!」と呟きながら立ち去りますが、自分を奴隷の境遇から養子にしてくれたムハンマドに気を遣ったザイド(実直な男だったそうです)は妻を離別し、ムハンマドは規定の四ヶ月を待った後ザイナブと結ばれます。


 このザイナブと結婚してまもなく、ムハンマドはアル・ムスタリクという遊牧部族との戦いに勝利し、ジュワイリーヤという女性を捕虜にして帰りますが、この女性も妻の一人となっています。


 627年、ムハンマドメディナの有力なユダヤ教徒のクライザ族を滅ぼし、そこへ嫁いで来ていて寡婦となったユダヤ教徒のナディール族の女性、ライハーナという名の美女を娶ります。


 またもう一人、これもまたユダヤ教徒だった女性ですが、メッカの北方でムハンマドに滅ばされたキナーナ族の寡婦、17歳の美少女のサフィーヤも妻になっています。


 さらにムハンマドは、東ローマ帝国のエジプト総督が贈り物として届けてきた金髪の女奴隷の一人、マーリアも妻にしますが、彼女はコプト派のクリスチャンでした。


 628年、ムハンマドクライシュ族の中で最も勢力のあったウマイヤ家の長アブー・スフヤーンの娘ラムラと結婚します。この婚姻は多分に政略結婚的な意味があったと言われていますが、ラムラは一族の中の変わり者と呼ばれた女性で、ムハンマドがメッカで迫害されていた時にすでに改宗していました。この時35歳の寡婦でした。


 そして629年、叔父アッバースの義妹で26歳の美女マイムーナと最後の結婚をします。このマイムーナの甥に、預言者から「アッラーの剣」と呼ばれた名将のハーリドがいます。


 メッカ時代、50歳になる頃までは一人の妻しかいなかったムハンマドは、こうして50代のメディナ時代に十人以上の妻を娶ります。彼はたびたびの出征にもこの妻たちの中から一人か二人を同伴したと伝わっています。
 そして630年、とうとうムハンマドは一度は逃れるように去ったメッカを征服し、イスラムの基礎は固まります。この年およそ60歳になっているムハンマドの生涯の最良の瞬間だったでしょう。


 632年6月、マイムーナのところにいるときに身体の変調を覚えたムハンマドは、これがただならぬ症状だと察知し、妻たちの同意を得て、とくにアーイシャの部屋で静養することにします。そして旬日をおかず、最愛の妻アーイシャに後ろから抱かれながら預言者は最期の時を迎えたのでした。

 敬虔で香気に充ちたイスラム預言者マホメットは、たしかに世の婦人たちの偉大な愛人であった。かれのほうでもまたけっして婦人たちがお嫌いではなかった。かれはつまるところ、有能で可憐な女たちから精力的な支持と心からの帰依とをかちえて、これを保つという類の偉人のひとりであったのであり、これらの女たちがまたこの類の偉人たちの成功と、その人生を楽しくすることとに、大幅に寄与しているのである。
 マホメットの数人の妻たちのうちでも、ハディージャアーイシャとは、他の妻たちよりもとくにそのような線で寄与するところがおおかった。
 (ネービア・アボットイスラム史学)『マホメットの愛人アーイシャ』より)

*1:今日の内容は、前嶋信次イスラム世界』河出書房新社、1989などを参考にしております