シーア派

 昨日お話しましたムハンマド(モハメット)の人間関係の中からちょっと部分を再掲します


 ムハンマド(夫)−アーイシャ(妻)<アブー・バクル(父)
          −ハフサ(妻)<オマル(・イブヌル・ハッターブ)(父)
          −ラムラ(妻)<ウマイヤ家(長の娘)


 イスラムでは、ムハンマドはアダム、ノア、アブラハムモーセ、キリストの後をうけた最後の預言者ですから新しい預言者はあり得ないのですが、彼の死後イスラム教団(ウンマ)全体を率いる指導者を決めねばなりませんでした。もともとアラブ世界では族長の世襲もまれで、実力をもって周囲から認められた人が選ばれるという風潮がありましたが、まずムハンマドの「跡継・代行者」(ハーリファ。後になまってカリフ)として選ばれたのは教友であり義父のアブー・バクルでした。また彼が二年で亡くなると、その指名によって次に指導者になったのがオマル・イブヌル・ハッターブです。オマルは十年その地位にいましたが刺客の凶刃に倒れます。
 それを継いだのはウマイヤ家のオスマーンという人でしたが、彼は十四年後にメディナの自宅で暴徒によって殺されてしまいます。


 ここでアリーがその次の後継者になります(656年)。アリーはムハンマドが幼くして父母を亡くした時、彼を育ててくれた叔父アブー・ターリブの息子でムハンマドの従兄弟でした。またアリーはムハンマドの娘のファーティマの夫でもあり、義理の息子にもあたります。ムハンマドの一家は、彼の死後アフル・アル・バイト(≒御一門)と呼ばれましたが、アリーはその長ともなっていました。
 実はムハンマドが亡くなった当初から、このアリーを推す人々はかなりいました。彼らはムハンマドの血筋を尊重する血統主義者で、この人々が現在のシーア派の源流になります。


 ムハンマド(父・従兄弟)>ファーティマ(娘)−アリー(夫・従兄弟)


 しかしアリーがカリフとなった頃の教団は内紛が激しく、特にシリア総督としてダマスクスに勢力を持っていたウマイヤ家のムアーウィヤは、先代カリフのオスマーンの死の責任がアリーにあるとしてことごとく反目していました。メッカもまた反アリー派の拠点となってきましたので、アリーはアラビア半島を出て首府をイラクのバスラに移します。(この後、教団の中心がアラビア半島に戻ることはありませんでした…)
 アリーの性格は誠実・清廉で、聡明なうえに弁舌さわやか、戦場での勇敢さも比類なきものであったと言われますが、政治家としてはまっすぐ過ぎたみたいで、家康的なムアーウィヤの老獪さに振り回された感があります。
 特に657年にユーフラテス河岸のスィッフィーンで大軍どうしの会戦が行われますが、優勢な中にも勝利が決定づけられないまま停戦ということになり、味方軍のタカ派の離反を招いてしまいます。これがハーリジ(離反)派と呼ばれるもので、教団初の公然の分裂とされます。ハーリジ派に言わせると、和議を結んで話し合い決着をつけようとするのはアッラーの思し召しを無視する思い上がった行為であり、またアブー・バクルからアリー、そしてムアーウィヤまですべてクライシュ族の出身で、教主(イマーム)になるべき人はもっと広くムスリムから平等に選ぶべきだという主張がそこにありました。
 アリーの残りの任期はほとんどこのハーリジ派との抗争に費やされてしまいますが、661年2月、礼拝堂でハーリジ派の刺客に刺され、短い任期を終えることとなります。60歳でした。ちなみにアリーの墓所イラクシーア派の聖地であるナジャフにあります。


 アリーまでの四代のカリフは「正統カリフ」と呼ばれます。一応これらの人はムスリムの衆議で決められたからです。しかしアリーの死後、一部の推挙でカリフを名乗ったアリーの長子アル・ハサンが結局数ヶ月でムアーウィヤにカリフを譲ったため(その前からムアーウィヤはカリフを自称していましたが)、ここにウマイヤ王朝がダマスクスを首府に始まることになります。


 ムハンマドの血統は、アリーとファーティマの間に生れたアル・ハサンとアル・フサインによって後世に伝わります。この血統の人たちは、現今もシャリーフまたはサイイドという敬称で呼ばれています。先に述べた血統主義を信奉する人たちは、このアリーの子孫に正統なカリフの地位を要求する政治グループを作りました。
 ムアーウィヤがその息子をカリフに指名したのに怒ったこの派の人々が、アリーの次子アル・フサインをカリフに擁立しようとした時、ウマイヤ朝軍はこの一家を虐殺します。これが「カルバラーの悲劇」(680年)と呼ばれるもので、この「殉教」を今なおシーア派は忘れずに毎年殉教祭(アーシューラー)を行っています。そして地下活動を始めたこのグループにおいて、イマーム(教主)の観念にメシア思想が重ねられ、七世紀末に一つの宗派が生まれます。これが今のシーア派に続くのです。(イマームという称号は、元来はムスリムの公式礼拝などの場合の指揮者のことで、他の人たちの前に出る人というような意味から出ています。初期はほとんどカリフと重なる語義を持っていましたが、シーア派におけるイマームは「救世主」的意味合いを持つようになっています)


 シーア派の信仰に近いものを日本で考えると、私は本願寺教団がそれにあたると思います。浄土真宗です。親鸞没後に、その血筋(御血脈)を尊いものと考え、血統によって門主を選ぶことが正しいとするあり方はまさにシーア派と同じ主張にも思えます。(これは余談ですね)


 その後シーア派は幾度も分裂抗争を繰り返してきました。シーア派の流れでは、10世紀にアルジェリアからエジプトにかけて広大な領土を持ったファーティマ朝が最大のものですが、アラビアン・ナイトに登場する「暗殺教団(ニザール派)」なども同派の一部です。
 歴史上、シーア派はいずれのイスラム社会においても大抵少数派であり、差別されてきた存在でした。多数派からみればその教義は、アリーの崇拝や預言者の血統へのこだわりなど「異端」にしか見えなかったからです。
 現在、全ムスリムの1割から2割を占めるシーア派は、イランで国教とされる他、レバノンバーレーン、そしてイラクで多数派となっているのです。