無門関の「犬と猫」

 禅の公案『無門関』の初関、最初にある公案(第一則)は「狗子仏性」です。これは犬に仏性があるかないかという問いと、それに対する答え「無」というものを考えさせるものです。

 趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。

 


 家の宗旨は曹洞宗でしたし(公案臨済宗の禅で用いられます)、禅を導いてくださる方を求めたことがありませんでしたから『無門関』は長い間私には縁なきものでした(書名は存じていましたが、手にとって見たこともありませんでした お恥ずかしい)。でもほんとうにたまたま、一般の方々が『無門関』に挑んでみると申しますか、肩の力を抜いて自分なりに解釈してみるというBBSに出会いまして、そこで盲蛇にちょっと参加させていただき内容を知るぐらいには触れることができたのです。


 ちょうど今この内容が気になるという状況でもあり、何となく思い出していました。
 「涅槃経」には一切衆生悉有仏性とあり、また天台宗の良源は一草一木各一因果、山河大地同一仏性と説いておりますが(応和の宗論 963年)、ここで問われているのはもとよりそういう教義ではありません。また、ここで趙州が答える「無」も「無いよ」ということではないでしょう。
 あとは各々が悩んで考えるだけです。

 趙州和尚 因みに僧問う、狗子に還って仏性ありや また無しや。州云く 無。


 無門曰く 参禅はすべからく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。とこの後続きますので、師のいない私はここで自分の解をどうのこうのは申しません…。


 また『無門関』には猫も出てきております。第十四則「南泉斬猫」です。

 南泉和尚因東西堂爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救、道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云、子若在即救得猫兒。

 


 雲水たちが東西に分かれて子猫のことで争っていました。その機を逃さず師匠の南泉が猫に刀を突きつけて「お前たち何か言ってみよ、言えなければ猫を斬る」と詰め寄ります。誰も声を挙げられません。それで南泉和尚は猫を斬ります。晩になって南泉の弟子の趙州が帰ってきます。南泉はお前ならどうすると趙州に訊ねますが、趙州は(一言も答えずに)はいていた履を脱いで、自分の頭に載せて部屋を出ていきます。南泉はお前がいてくれたら子猫を救うことができたのに…と言います。

 南泉和尚、東西両堂の猫児を争ふに因んで、(泉)乃ち提起して云く、大衆道(い)ひ得ば即ち救はん、道ひ得ずんば即ち斬却せんと。衆対無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙示す。州乃ち履を脱いで頭上に按じて出ず。泉云く、子若し在らば即ち猫児を救い得てん。


 頭に履(くつ)を乗せて去った趙州の言いたかったことは何か…考えれば考えるほどわからなくなります。正しい解釈が一つだけある、とも思えません。もちろん私もお話できるほどのものはありません。


 首をひねられた方は、もし興味がおありでしたら『無門関』に関しては真剣に解釈されている方が多くおりますので、いずれかの語をキーワードに検索されてみてはいかがでしょう。私が(そのBBSで)その時投稿したのは公案に対する直接の回答ではなく、猫の安らかなることを祈る次の和賛でした…*1

ねこ和賛

六道輪廻の 
理をもって  
猫に生まれしこの我は


覚りの道を 
求むとて   
あだな刃(やいば)に斬られしが


憂き世の身体 
離れては  
浄き恵みに与りて


光輝く    
御仏の   
遠き国土に至りけり


蓮(はちす)の華の   
その上の  
仏のひざに丸まりて


十万億土を  
照らし出す 
御法(みのり)の日ざし心地よく


ねえおしゃかさま
このぼくは
ずっとこうしてねていいの?


ずっとこうして
めをつぶり
くびをかいててもらいたい


ねこにうまれて
よかったよ
きもちよくってあたたかい…

*1:以前の日記でもこれを少し変えて祈りに用いたことがありましたね