放生という考え方

 最近VISAのコマーシャルで、インドの少女とリチャード・ギアが出ているものがあります。公式サイトで書かれているそのCF「Birds」篇の筋はこのようなものです。

 ここはインドの古い城塞の街。美しい朝焼けの中、キャラバンの荷揚げをしているまだ小さな少年。それを少し離れた街角でじっと見ている妹の少女。この時、兄想いの少女はふと何かを思いつき急いで駆け出し、色とりどりのさまざまな品物が並んでいる市場を走り抜けてゆきます。
「鳥を自由にしてやると、幸運が訪れるんですよ」。ちょうど同じ頃、インド人のガイドからそんな言い伝えを聞いていたのは、ロマンスグレーの髪に白いシャツがさわやかなリチャード・ギア。周囲には鳥売りたちと籠に入ったおびただしい数の鳥。興味深げにうなずいたその時、先ほどの少女が出会い頭にぶつかってきます。「大丈夫?」と少女に声をかけるリチャード・ギア。一瞬びっくりしたものの、先を急ぐ少女は何も言わずに走り去ります。
 そして少女は、ある鳥売りの露店にたどり着きます。「鳥を五羽ください。兄さんのためなの」。鳥売りは彼女が差し出した数枚のコインを見つめ首を振ります。「これじゃ一羽しか買えないよ」。希望した数が買えなかった彼女は悲しげな顔でトボトボと帰って行きます。その一部始終を見ていたのがリチャード・ギア。彼女の後姿からくるりと視線をかえすと鳥売りに向き直ります。そしてその手にはVISAのゴールドカードが・・・。少し悪戯っぽく微笑みながらカードを渡すと、鳥売りも全てを承知したようにうなずきます。
とうとう兄のいる広場まで戻ってきた少女。これから旅立つ兄のために、たった一羽の鳥を放とうとすると・・・。いっせいに無数の鳥たちが彼女の周りから飛び立ちます。彼女の思いをのせた鳥たちが空に舞い上がる風景はまるで魔法使いが魔法をかけたよう。何が起こったのかとあわてて見上げる少女。その後方には、ほほえんでいる魔法使いならぬリチャード・ギアと鳥売りたちの姿が・・・。全てを察して感謝のまなざしを送る少女に気が付いたリチャード・ギアは・・・?


 これはそのまま「放生(ほうじょう)」の儀礼とおわかりでしょうか?放生とは、捕らわれた生き物を放してあげる儀礼行為です。日本では仏教の「放生会」として長く続いてきておりますが、その嚆矢は養老四年(720)、隼人の乱を鎮圧した大和朝廷が戦死者の鎮魂として宇佐神宮で行ったものとされています。


 インドにはアヒンサー(ahimsa)と呼ばれる「不殺生」の思想があります。この言葉からガンジーの「非暴力」思想を思い起こされる方も多いかと思いますが、その起源は古く、仏教成立以前に遡ります。ちょうど仏教と時を同じくして成立したジャイナ教Wikipedia「ジャイナ教」)では、このアヒンサーの厳守が最も重要な教義とされ、今なお続いております。生きとし生けるもの、いえ地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーバ)の存在を認め、これを害することなく生きることで霊魂に付着した汚れを除去できると考えられているのです。宗派によっては空気中の小さな生物も殺さぬように白い小さな布きれで口をおおうと聞きます。


 「生き物を放つ」という行為は、命というものすべてのつながり合い、この世がお互いに繋がり合い生かしあう命で織り成されているという世界観を象徴的に再確認する行為なのです。


 アヒンサーの思想が仏教に入り不殺生戒として残るわけですが、仏教の広まりと同時に各地のアニミスティックな考え方と結びついて放生儀礼も広く見られるものとなります。「放生」という漢語の初出は『列子』(説符篇第二十八)とされますが、これが書かれた紀元前四世紀頃の晨旦*1にも類似の発想や行為があったことは確からしいです。


 たとえば現在タイあたりに行っても、有名寺院や廟、遺跡などの前で捕まえた生き物を売る店が多く出ています。小鳥や亀、タニシや小魚の類です。これを求めて買った人は、たとえば小鳥ならそれを籠に入れて少し離れたところで空に放します。まさにVISAのCFで取り上げられたものと同じ「放生」の行為です。亀などの水棲動物は池や川などに放されます。上海の朱家角にある石橋は「放生橋」と呼ばれ、橋のたもとで金魚が売られています。それを買った人は橋から金魚を川に放してあげるのです。これらは、観光客などには「ラッキーになるおまじない」程度に説明されますが(上記CFでもそうなっていますね)、実はより深い宗教的意味を持つ儀礼なのです。


 日本における放生会の記録としては、勅命によって執り行われた岩清水八幡宮のもの(貞観五(863)年)や鶴岡八幡宮のそれ(文治三(1187)年)などもありますが、今なおそこここの寺院で散見する「放生池」(たとえば黄檗萬福寺のものを私は記憶しております)は、すべて生き物を憐れんでそこに放つためのものとして作られていたのです(今はどう考えられているかわかりませんが…)
 江戸期にはまさにタイのそれと同様の庶民の放生が行われていたという記録が残っていて、「放し亀」「放し鰻」「放し鳥」が盛んであった様が偲ばれます。

 放し亀 蚤も序(ついで)に とばす也  (小林一茶


 またこの放生の思想は、日本の説話・昔話などの中で「報恩譚」として形を変えて多く残ります。鶴の恩返しの類です。浦島子の亀の物語も、放生という儀礼につながったヴァリアントの一つであると言えるでしょう。


 今月の中頃には筥崎宮(福岡県福岡市東区)で放生会(9月12日〜18日)が行われますね。これは博多三大祭りの一つだそうで、賑やかなものと伺いますが、残念ながらちょっと出かけられそうにありません。
 殺伐とした事件や事故が頻発する今の世界に、私はこの放生の考え方、アヒンサーの思想が求められているような気がいたします。


 たとえばインドやタイの放生の場面では、亀やウナギを川に放しにいくと現地の子供らが待ちかまえていてまたそれを捕まえてお店に売ってしまいます。小鳥だってそうです。放たれたものが「リサイクル」されてしまうこともしばしばだとか…(笑)
 しかしそれをもってまやかしだと考える必要はありません。どのように他の命を大事に思っても、結局それを使わなければ人間は生きていけないのです。ですから、そういう「いのちに支えられてある」ことを考え直すという意味で放生があると考えればよいのです。これによって徳を積み、後生が良くなると考えるのでも構いません。いずれにせよささやかに、私たちがそこから何かを得ることはできると思います。


 このアヒンサーの考え方こそ、グローバル・スタンダードになってくれないものでしょうか?アジアの多くのところに広まったという点では、普遍的な思想になってもおかしくないと見えるのですが…


(※ただし、カミツキガメ、ワニ、ピラニア、日本にいなかった種類の甲虫類、ブラックバスブルーギル等の放生は、やめて欲しいと切にお願いいたします (^_^;)

*1:中華人民共和国となっている地域の歴史的な表現として、私は晨旦を使いたいと思います。日本人が支那というと彼らは感情的になるようですので…。なぜ彼らがChinaと言われて平気なのかについてはわかりませんが