地蔵についての若干の補遺

 今日9月2日であの北オセチアでの学校占拠事件から一年になるとのこと(参照:Wikipediaの記述)。156人の子供が亡くなり、それ以上の数の死者・行方不明者を出した痛ましい事件でした。もう一年が経つんですね…。一週間ほど前(8/23)に地蔵信仰について少し書かせていただきましたが、その時少し触れるだけにとどめた「地蔵和賛」をご紹介し、あの事件の犠牲となった子供たちに手向けたいと思います。

賽の河原の地蔵和賛

これは此の世の事ならず 死出の山路の裾野なる
賽の河原のものがたり 聞くにつけても哀れなり


二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬみどり児が
賽の河原に集まりて 父上恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は 此の世の声とはこと変わり
悲しさ骨身を通すなり


かのみどり子の所作として 河原の石を取り集め
これにて回向の塔を組む


一重組んでは父のため 二重組んでは母のため
三重組んでは故郷の 兄弟我身と回向して
昼は一人で遊べども 陽も入相のその頃は
地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする


娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと
親の嘆きは汝らが 苦患受くる種となる
我を恨むること勿れと 黒がねの棒を差し延べて
積みたる塔を押し崩す


其の時能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給いつつ


汝ら命短くて 冥途の旅に来たるなり
娑婆と冥途は程遠し 我を冥途の父母と
思ふて明け暮れ頼めよと


幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて
哀れみ給ふぞ有り難き


未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲のみ肌に 抱きかかえてなでさすり
哀れみ給ふぞ有り難き   


南無延命地蔵大菩薩

 こちらには、秋田県男鹿半島、寒風山の「賽の河原」の画像などもございます。

とげぬき地蔵のこと

 巣鴨の「とげぬき地蔵」には数年前一度参りました。さすがにあそこがしっくりくるような年齢ではありませんが(笑)、世に喧伝されるとげぬき地蔵様の信仰とはどういうものか、とりあえず一度見てみようとおもったからです。話に聞く「お地蔵さんの身体をこすって(同じ部位の)自分の身体の調子を取り戻す」というのは、撫仏というもの(病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るというもの)で、全国各所のお賓頭盧(びんずる)さまの信仰で見られるものと同種のものです。(過去日記参照


 さてかの地で実際に自分でもちょっと仏像をこすらせていただいたりしてみましたが、それは瓔珞をつけ花を持つ観音さま聖観音)のお姿でありまして、僧形のお地蔵様ではありませんでした。観世音菩薩での撫仏というのは他に類をみないのではないかと思います。


 とげぬき地蔵の由来には観音さまは関わりません(参考

 正徳3年(1713)のこと、江戸小石川の田付又四郎という人の妻は、日頃から地蔵尊を信仰していましたが、ひとりの男児を出産してのち重い病の床についていました。諸方の医者が手当てをしましたが、甲斐がなく、ついには「怨霊のたたり」とあきらめて死を覚悟する始末でした。


 そこで、田付氏は妻が以前から信仰していた地蔵尊にすがるしかないと、熱心に祈願を続けていますと、ある日黒衣の僧侶が田付氏の枕元に立ち、「私の像を川に流しなさい」とのお告げ。そして、「あなたに印像を与えよう」といわれます。目覚めてみると、枕元に地蔵尊を刻んだ小さな木片がありました。さっそくこれを印肉にしめして一万体の御影を作り、一心に祈りつつ、これを川に浮かべました。翌朝、夫人の夢に現われた死霊を袈裟をつけた僧が錫杖で突き出してしまいました。その後、夫人の病気は日1日と回復し、以後夫人は無病になったといいます。


 それから2年後のこと、毛利家の女中が誤って針を呑み込んでしまいました。針は腹までまわって医者も手のほどこしようがありません。そこで田付氏のつくった地蔵尊の御影を飲ませたところ、御影を貫いた針が吐き出された、ということです。

 なぜ高名な巣鴨とげぬき地蔵で「洗い観音」になっているのか、その時関係者の方にも伺わなかったのが少々悔やまれます。機会があれば今一度お参りしてみたいと思っておりますが…