選択

uumin32005-09-06


 朝日新聞の記事で、「ニューオーリンズ市、全住民避難の方針」というものがありました。

 チャートフ米国土安全保障長官は4日、ハリケーンカトリーナ」による被災後、治安の悪化が指摘されていたルイジアナ州ニューオーリンズ市について「州兵と軍の追加で治安を確保した」と述べる一方、衛生環境が悪化している同市域から当面、全住民を避難させる方針を示した。

 これは、こちらのVOAの記事国土安全保障省DHS)のMichael Chertoff長官が次のように述べていることを受けての記事だと思いますが、正式な決定として動き出したものとはちょっと思えません。

 Homeland Security Director Michael Chertoff says health conditions are such that relief workers cannot continue to assist people who refuse to leave the city.


"There are a significant number of people who say they do not want to leave and we give them food and water, but let me say this: that is not a reasonable alternative," Mr. Chertoff says. "We are not going to be able to have people sitting in houses for weeks and months while we de-water (remove flood water) and clean this city."

 今日の他のアメリカのニュースサイトでも、全住民退避が決定と取れるヘッドラインは(今のところ)見当たりません。これに類する記事として、イギリスのテレグラフ紙でWe can force people to quit city, say policeというものを見つけましたが、この記事でのMichael Chertoff長官の言葉も、「自宅の近くに残りたいという気持ちもわかるが、公衆衛生と治安の観点から全住民非難が必要であり、我々はそれをしなければならない」というぐらいのニュアンスです。何よりこの記事でニューオリンズ警察副長官のWarren Rileyの言葉では

 We advised people that this city has been destroyed, and it's completely been destroyed," he said. "There is no power, trees are down, power lines are down.

 というように「協力を求める」という立場での説得を行っており、

 "Our law enforcement people are not involved in taking people off the street and forcing them out of the city at this point. There may come a time where we get into that mode."

 まだ避難命令を出す段階にはない(しかしいずれそうなるだろう)という言明に留めています。


 昨日hiromojoさんからいただいたコメントにもありましたが、屋久島と同緯度の高温多湿の気候のニューオリンズ平均気温と平均降水量)で下水なども溢れての浸水ですから、これから感染症が非常に危惧される状況になるはずです。水が完全に引くのに八ヶ月かかるという観測もありましたし、すでに対岸のミシシッピ州ビロクシでは赤痢が発生したとのニュースもあります。また、治安対策としても全住民退去が有効であろうことは容易に理解できます。それは都市での「ゲリラ戦」を避ける効果を持つでしょう。
 そして何より今回の救援活動の遅れの最大の原因である「兵站」「補給」という側面から考えても、人々が周辺に移動した方がより早く手厚い救援を望めることは言うまでもありません。


 問題は、そこに発生するデメリットをどう評価するかです。そしておそらく、市民権も無しに不法に就労していた貧困層は容易に命令に従わないでしょう。補償が認められる可能性も低いでしょうから。
 こうした事柄はアメリカの内政問題ですから傍で見ているしかないのですが、ただここに現れてきている「選択」は私たちにも関係ないものではありませんので、よくよく注目すべきだと考えます。


 その「選択」とは自由と安全のどちらを重視するかというものです。そこに残りたいという人の心情、そして自由を尊ぶポリシーから言えば、無理に人を動かすことはできません。しかしそれは救援の遅れや被害の拡大すら意味するかもしれません。都合の良いことをすべてかなえる魔法はないのです。どこかで現実的な妥協が必要になると私は思います。

「自由は不自由よりもよい」と「安定は不安定よりもよい」という二つの、同様に異論の余地のない「よりよい」パターンのすべてが、いつもともに同程度に維持できるわけではないことは明らかである。むしろ一方の側のもっとよいものは、少なからず、他の側のよいものを犠牲にすることで得られる。つまりここでは、(極端な場合には)両立しないものの間での均衡と妥協こそが、現実的に期待できるもっともよいことなのである。すべて現実はそうであるように、ここでもまた「両立可能性」の原理が支配する。とりわけ自由主義的な体制は、無秩序に向かう内側からの危険性と、(平等主義的あるいは不平等主義的な)力による外からの破壊の危険性の間でバランスを取らなくてはならない。それはその本性からして妥協のうえに築かれている。妥協はそれ自体が本質的に不完全な状態であると同時に、自由という前提がある以上、流動的たらざるをえない。つまりつねに新しい状況適応を課せられている。だから、この体制にとって「安定」は金輪際無縁な代物である。妥協と本性的な不完全性、中途半端で不安定であること、これらは「ユートピア」にはその性質からして全然ふさわしくない。本性的に妥協がなく「まったき」存在であること(そして何よりも変化しないこと)は、自由主義とは反対の側でしか得られない。だとすれば「現実の」ユートピアを説くいかなる者も、そちらの側に賭けるしかない。
 (ハンス・ヨナス『責任という原理』東信堂、2000年)

 私はこの引用に挙げたような「妥協」がまっとうなものに思えますし、それを含めて自由主義的なこの社会を支持したいと考えています。その反対の立場にある「ユートピア」社会は、いまのところどうも胡散臭いとしか思えませんから…。