御霊信仰(道真)

 昌泰二(899)年二月十四日、宇多上皇藤原時平左大臣菅原道真を右大臣に任じます。宇多上皇の信任篤い道真の出世を快く思わない一部の公卿、時平の他、源光、藤原定国藤原菅根三善清行たちは、この道真の栄達を何とかして打ち消してやろうと画策を始めます。
 もともと道真は低い家柄でしたが、その学才を宇多天皇に愛され破格の出世を遂げました。そして宇多帝は側近のように道真を用い、天皇親政に近いことをすることもありました。ここらあたりが旧来の政治勢力に憎まれた由縁だったと考えられています。


 翌年の十月十日、文章博士だった三善清行が道真に書状を送って右大臣の職を辞するよう勧告します。挙げられた理由は、次の年の二月に起こると清行が占った天変地異もしくは動乱で、道真の身に変事が起きるからというものです。もちろん道真はこれを黙殺しますが、清行はさらに十一月、朝廷に対し翌年辛酉革命が起きると上申します。この下準備のもと、陰謀は宇多上皇が譲位した醍醐天皇を巻き込んで進展しました。


 次の年、昌泰四年の正月七日、時平と道真はともに従二位に昇進します。ここが道真の政治的頂点でした。同月二十五日、時平たちに説得された醍醐天皇は右大臣菅原道真を太宰権帥に左遷することを命じた勅を発します。その理由とされたのは、道真に天皇廃立の意志があり、自分の娘が嫁していた天皇の弟である斉世親王皇位につけようとしたというフィクションでした。宇多上皇は直ちに内裏に参じ醍醐帝に処分の撤回を求めようとしますが、蔵人頭であった藤原菅根上皇の参内を黙殺し天皇に取りつぎません。終日庭に座り込んでいた上皇でしたが、結局空しく帰らざるを得ませんでした。


 大宰府での道真は都をのみ恋しく思い、まったく不遇の年月を重ねます。そして延喜三(903)年、彼の地で五十九歳の生涯を閉じたのでした。ところがこの死の後、道真の左遷に荷担した天皇や公卿が次々に不幸に襲われるという事態が起き、人々は道真の御霊(ごりょう)のせいであると信じるようになります。この御霊とは、もともと政治的に非業の最期を遂げた人の霊が、政敵に祟って災害や病気の流行をもたらすという考え方です。


 延喜六年、藤原定国が四十歳で早世します。二年後藤原菅根も五十四歳で死亡しますが、人々は彼が震死(落雷に打たれて死ぬ)であったとみなします。さらに翌延喜九年、藤原時平が疫病にかかって逝去。そして延喜二十三年、醍醐天皇の皇太子保明親王が二十一歳で亡くなるに至り、朝廷は菅原道真の本官を右大臣に復し、正二位を贈って左遷の宣命を焼却します。
 ところがさらに延長八(930)年、宮中の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫ら数人の公卿が震死します。またこの年の夏には人魂と呼ばれる流星が都の空に見られ、その日から醍醐天皇が咳病になるのです。醍醐帝の重篤な状態はふた月にわたって続き、結局そのまま四十六歳で崩御してしまいます。


 このような一連の暗合を集大成し、すべて道真の御霊のせいであったというストーリーをまとめたのが『日蔵夢記』でした。これは金峯山の岩屋で急死した僧日蔵が、死後の世界を巡るうち天神となった道真に会って委細を聞き、地獄で苦しみを受ける醍醐天皇などに会って、十三日後に蘇生してすべてを語るという筋立てを持つお話です。ここで道真左遷に始まる政治的ストーリーが、一つの御霊の祟りの物語としてまとめられたのです。
 なおここで夢記をまとめた日蔵という僧侶は、実は三善清行の息子でありました。行き場を失った祟りという野生の力を、物語にまとめて治まってもらいたいとする親の願いを汲んだ著述だったのかもしれません。

余談

 さて、このように政治的怨念というものは古来日本において「破壊的な力を持つ」と信じられてきました。ですから、怨嗟を押さえつければ押さえつけるだけ恨みつらみは内向し、思わぬ事態を引き起こすかもしれません。
 それを考えれば、今回の総選挙の後で結果に不満を持った人たちが呪詛のような言葉をブログなどに書き付けているのも、また選挙特番で恨みつらみの文言がメール・ファックス紹介で流されたのも、すべて敗者の代弁、それに対する鎮魂(たましずめ)の行為であると思って、ああそうだねと聞いてさしあげることが何よりの(悔しさ、怨念に対する)供養なのではないかと思うのです。本人が死ぬなどのことはなくても、恨み自体が実体化し祟るというのも「六条御息所」をはじめ少なからず語られる日本の伝統なのですから…。