「被災者の言葉」の補遺

 14日の日記のコメントでacoyoさんに語っていただいたことについてちょっとだけ書いてみたいと思います。


 私は、反差別の運動が前世紀に相当の成果を挙げたと評価しております。まだまだ不十分なところもあるでしょうが、それこそ前世紀初頭あたりの状況、いえ20世紀半ばの状況に比べましても、その後の人種差別的制度の減少は明らかなことでしょう。たとえばアメリカでも公民権運動によって非白人に対する無体な差別的制度(人種分離の施設や乗り物など)が撤廃されましたし、南アフリカでのアパルトヘイトも無くなりました。そしてさらに「差別はいけないもの」という倫理観が、かなりグローバルに広がってきたのも大きな成果の一つでしょう。


 ですが、反差別の運動は「制度的」で「公的」な部分を改めさせるに留まらず、「思想的」で「私的」な部分へ踏み込んで来ているのではないでしょうか? 思想的というのは、言葉に対するポリティカル・コレクトネスの圧力というものも含みます。確かに言葉で他者を傷つけることはあります。だからそこへの配慮も必要でしょう。しかしそれは「教育」や「啓蒙」が行うべきことであって、反差別の運動体が「制度の改善」と同じレベルで「思想の改善(矯正)」を目指すのは間違いであると考えるのです。


 反差別の運動体は、制度の改善という一応の目的を果たしたらそこで退くべきだったと思います。もちろん差別的制度が残っているところでは引き続き残るべきでしょうし、新たな差別的措置が現れないように最小限の見張り役は必要でしょうが。私個人の感想としては、運動が運動体の存続を望んでしまったがゆえに、本来立ち入るべきでなかった「こころ」の領域まで進もうとした(進んでしまった)ように思えるのです。


 acoyoさんのおっしゃるように、確かにアメリカの黒人層のある部分には未だ負の経験に基づく負の感情が残っていると思います。それは貧困や不遇の状態に残されたままの人たちにとっては当然のものかもしれません。生活が向上して人生に満足するまで、そうしたルサンチマンは温存されてしまいがちでしょう。
 それに目を向けること(認識すること)は必要ですが、その認識から一人一人がどう行動すればよいかなど決まってはいません。すでにそれはこころの問題、個人の問題です。制度的改善ならいくらも要求し実現することはできるでしょうが、共感し同情する以外にどうすべきかは結局一人一人の問題なのです。そしてそれを他者が強制(あるいは矯正)することに、私は紛れの無い正義を感じないのです。


 また制度的なものが改善されるにつれ、「自分を馬鹿にした」とか「差別的な目でみられた」とかいう行為が「差別の実例」として語られてきたりしますが、これは(教育や啓蒙の分野では別ですが)国がどうこうという問題ではありませんし、私には「自分を嫌ったから差別だ」というのに近く思われます。
 でも自分がいくら好かれたいと思っても、相手に好きになれと命じることはできません。(ふと思ったのですが、これはもう非モテ論争の言説にかなり近いことになっているような気が…)


 時間的に今は長く書けないのですが、このようなことを考えたりしています。acoyoさんだけでなく、もしこれをごらんになる方で、何かご意見がおありでしたら、ぜひコメントなどお願いしたいと思います。以上です。

追加

 帰宅したところでもう少し追加します。これはおそらく考えを練って書くべき題材でしょうが、私はそうすることで表現がマイルドになって無難になりがちですので、むしろここでは思いつくままに書いてみたいです。
 上記の文はacoyoさんの問いかけとちょっとずれてしまっているようにも見えますが、私の考えでは直結するものでした。acoyoさんは彼我の格差の問題に無関心でいられようか…という至極まっとうなことをお考えなのだと思います。それゆえ皆が関心を持って、少なくともその痛みを無視するのはやめようと呼びかけられているのではと…。
 もしその考えでいらっしゃるのでしたら、私は共感いたしますし反論などいたしません。しかしどこかにacoyoさんと私の考えのずれがあるとすれば、それは私が上の考えのような経路で一旦「差別」の心の問題から離れるべきではないかと思っている点にあるのではないかと考えたのでした。


 たとえば近代の法体系は私的復讐を禁じます。刑事事件の被害者も、判決に「被害者感情を考慮して」の一文が入ることはありますが、気の済むように報復することはできません。報復は犯罪になってしまいます。それにはこころ(感情)の忖度がとても難しく、正義を以って同害報復を成立させることが適わないという見切りの所為もあるのではないかと個人的には思っています。何をどのくらい大事に思っているかなど、一般に客観性をもって推し量ることは難しいものです。
 どこかで、大事にしているコレクションを親に処分されて、初めて親に殺意を抱いたというネタが書かれていたのを拝見しましたが、それすらあり得ると言えばあり得ることで、傍から見ればなんのことはないものにも個人的には何かされれば他人に殺意すら抱くような重要性を与えている場合だってあるでしょう。私だってうちの犬が害された場合、私的復讐に走らないでいられるか自信はありません。
 だからこそ客観性を持った正義を実現しようとする場合には、被害者の感情だけではない判断が要請されるのだと思います。(現時点の刑法の量刑などを適当と思っているわけでもありませんし、被害者感情への一層の配慮は必要だと思っていますが…)


 それに引き換え「差別感情」なるものの糾弾は、あまりにも無反省に「差別された側の心情」によって裁かれているのではないでしょうか? それに抗する力が考慮されているとは伺ったことがありません。これはおかしなことです。


 たいていここで私の考えも進まなくなります。一方では、傷つけられた感情への配慮が大事であるという前提が心に浮かび、また一方ではそれを客観的に量ることができない以上、相応の配慮を強いることはできないはずという気持ちも湧いてくるのです。どういう態度をとるべきか、それはあまりにも重く私自身にかかってくる問題なのです。


 差別の問題、各人の心の闇の問題は、あまり普段考えたくないものだけにかなり蔑ろにされている感があります。しかしこれからは(皆が手抜きをしてしまっていて)声の大きい人の言う事だけが通るような今のままではいけないんじゃないかと考えてもいます。
 あと、思いつくままに書きますと、沖縄の人への差別というものを今年になって知りました。そういうものがかつてあったと、それで某大学ではアファーマティブアクションとして優遇すべき人たちの中に沖縄の記述が残っているという話です。そしてそれを聞いた沖縄の若い人があっけにとられたという落ちまで確かありました。
 真正面から「差別問題」としてそれが採り上げられていなかったからこそ、今やそれがなくなったのではないかと私はそこで直観的に思ってしまいましたが、これは事実ではないのでしょうか?
 部落差別の問題にせよ、私は大学でほとんどその実態を初めて聞いたようなもので、知らなければ差別もないとなぜ言ってはいけないのでしょう? 素朴に考えれば、そういうことではないのですか? 少なくとも私は断言します。いまだかつて「部落差別」に関して私の頭の中に黒い考えが湧いたことはないです。その問題をほとんど教育されていなかったのに、です。


 どんどんまとまりがなくなってきたような気もしますが(苦笑)今私が考えていることの一つは、差別対策などが今のままじゃいけないのではということです。だからこそ、こころの問題に入る場面では一旦「気にしない」という態度を取って再考すべきではないかと思うのです。それが今日のacoyoさんとのやり取りで、私が言いたかったことの一つでした。


 何かまだ言い尽くせていない感があるのですが、ちょっとここらで書きなぐるのをやめたいと思います。整理されていない本音の開陳みたいになってしまいましたが…。