殺さないこと

 たぶん小学生の時に『極北のオオカミ少女』を読んだときから、エソロジーの分野で高名なローレンツ博士の「動物は仲間どうしでは滅多に殺しあわない。人間は異常だ」という説に巻き込まれてしまっていたのだと思います。でもその後、どうもこの常識を疑ってもよさそうだということも聞くようになりました。


 なぜヒトを殺してはいけないのかについて、先日終わった『女王の教室』(#10)などでも語られていました。そこで提示されたものは信念のようなもので、必ずしも理屈として完璧なものではありませんが、それなりに説得力を感じる人はいると思います。

どんな人にも素晴らしい人生がある
一人一人が持っているものを奪う権利は誰にもない
残される遺族に苦痛を与える権利も誰にもない
だから人を殺してはいけない

 私はある時期なぜヒトが殺しあわないのかについて、(一部であまり評判は良くないのですが)社会生物学の繁殖戦略という観点が納得できるものだと思っていました。

 生物には(魚や虫などに見られる)多産多死戦略(r戦略)を採っているものがある。この類の動物では「仲間殺し」などは当たり前にあって、ほとんどが死んでも生き残るものがあればいいという戦略なので同類殺しに対する歯止めはかけられていない。
 これに対して(哺乳類のほとんどのような)少産少死戦略(K戦略)を採っている動物では、個体が成長するまでのコストが高く、お互いに殺し合うことが種の保存という面から合理的ではない。だからこちらには「仲間殺しをあまりしない」という歯止めが存在する。


 ですが北大の澤口俊之氏の書いたもので、K戦略を採る動物であっても多妻型社会をつくる(ハーレム的なものをもつ)哺乳類では「仲間殺し」をする素地を進化的に(「遺伝プラン」のような形で)持つものが多いということを知りました。

 生き物は自分の遺伝子を残すことを最重要な「目的」としている。ハヌマンラングーンなど、一夫多妻型の社会をつくるサルでは、群れを乗っ取ることによって、自分の遺伝子をより多く残すための条件−より多くのメスと交尾する−が整う。また、乗っ取り先の群れのコドモたちには自分の遺伝子が入っていない。しかも、乳児を抱えたメスは発情しないので、乗っ取ったオスは交尾できない。そのため、コドモを殺すわけだ(コドモをなくしたメスはやがて発情する)。
(澤口俊之「殺す脳、殺さない脳」より)

 実はヒトの社会の基本型は多妻型で、個体の割合でなく社会の割合で見るとその80%は多妻型もしくはそれを容認する社会になっています。系統的に4000万年間の長い真猿類の歴史を引きずっていると澤口氏は述べます。

 …もしかりに、ヒトがハヌマンラングーンやゲラダヒヒと同程度に子殺しを含めた「仲間殺し」をやっていたとしたら、人口一億人程度の社会(たとえば日本)では、年間数千万人の死者(とくに子供と大人の男性)が出るのは必至である。ところがそうでないことは言うまでもない。ヒトは、多妻型のくせに「あまり殺し合わない」という大きな特徴を(ローレンツの格言とは異なり)もっているのだ。

 これがなぜかという問題は非常に複雑で、簡単な答えを出すのは難しいと澤口氏はおっしゃいますが、「共生戦略」という一つの説明も提示されています。これは、ヒトが乗っ取りも子殺しも極力抑え、なるべく共存し助け合いながら、自分の遺伝子をうまく残していくという戦略をとったのであろうという仮説です。

 子殺しはオスにとってはともあれ、メスにとっては何の意味もない−それどころか、不利益きわまりない(コストがかかりすぎる)−ということだ。…メスの側にたてば、乗っ取りも子殺しもない方がよいにきまっているのだ。…


 つまり、メスのいわば「カウンター戦略」として、乗っ取りや子殺しをなくそうとする戦略・行動傾向を獲得・進化させ、一方、オスどうしでも、いわゆる「互恵的利他主義」のような行動戦略(互いに助け合うことによって、結局は自分の遺伝子を残す確率を高める戦略)を採用するようになったと考えられるのだ。


 澤口氏の語られるところではヒトの行動・社会の生物学的ベースは「共生」にあります。そしてさらに、この共生戦略をまっとうするための具体的な脳領域をきちんともっているとおっしゃいます。それが大脳新皮質、とりわけその前頭連合野です。

 前頭連合野の機能の中では、「理性」が重要な構成要素となっている。不適切な行動・衝動を積極的に抑え、適切な行動や人間関係を保つ、という働き(=理性)は前頭連合野の中心的な機能の一つなのである。自分の感情を制御して、殺しなどせず「共生」を志すためには理性は必須であることは言うまでもない。
 かくして、私たち人類は「あまり殺し合わない」という性質を、具体的な脳領域(前頭連合野)を発達させる形で、進化させてきたのである。私たちは「殺さない脳」をもっているわけだ。


 人はなぜ殺してはいけないのかという問題なども、倫理的・哲学的に考えるだけでなく、時にこのような異なった分野での考察を交えて考えていけばまた異なった視点で見ることができると思います。もちろん私たちの行動のすべてが生物学的観点から説明しつくせるわけもありませんので、これはあくまでも貴重な一つの視点ということになるでしょう。しかし少なくともこういう観点からすれば、あの『女王の教室』で言われていた

 人間は弱いものをいじめるのに喜びを見出す動物だから

 というような救いのない前提から考えを始めなくてよいことになるのではないでしょうか? もともと私はこちら方面の知識は少ないので、発想の転換として大変考えさせられています。とてもおもしろく感じました。