メタ教育を考えてみる

 初等教育の現状が学級崩壊など問題を抱えているように見える現在、どこかに歪みの原因(もちろん一つとは限らないです)を求め、対策を考えることが必要でしょう。まだ若干漠然としたもの言いですが、私はその原因を「メタ教育」が機能しなくなってきているところにあるのではないかと考えています。


 初等教育の時期は「教育を受けることを学ぶ(教育される)」というメタな構造を内部に持っています。そこではまず家族を離れた集団に馴染み、基本的な社会性をつけ、指導者を信頼し、そこから学ぶという基本姿勢・態度を習得するようになっているのです。私はこの「メタ教育」の側面が蔑ろにされていることが現状の問題を生んでいるように思えます。それを担うべき家庭と学校の両者は、あまりにもそれに無自覚です。


 文部科学省管轄の初等教育には「幼稚園」が入っています。ここではまさに社会性の獲得と、教育するものとされるものの信頼関係の構築、そして教えられる姿勢の習得が主眼とされています。極端に言えば「知識の伝達」はほとんどなくても構いません。教育を受ける姿勢さえ身に付ければ、あとは次の段階以降で学んでいくことができるのです。


 学校教育というものは人間の歴史において普遍的にあったものではありません。とりわけ国民皆に、学校などの施設において、同じ普通教育を受けさせるという発想はフランス革命以降の近代が生み出したあくまで歴史的なものです。ですからある意味この学校教育というものは人間にとって馴染みの薄い特殊な環境だとも言えるでしょう。そしてそれを病院、軍隊、監獄などと同じ「規律・矯正の制度(Discipline)」*1という体系で見ることができるのはすでに語られているところです。
 しかし学校も「規律・矯正の制度」だからとそれだけで批判し否定することはできません。そこには功罪があり、現在のほとんどすべての社会はその功の面を圧倒的に評価しています。さもなければ「途上国に教育を」などという声がでてくるはずもありません。


 ただ人の発達程度はそれぞれですし、若年時から他の子供と同程度の社会性を身につけることができない子供も必ず出てきます。そういう子にとっては最初から学校という枠組みに入れられるのは苦痛でしょう。そこには自ずから異なった配慮がされるべきです。
 学校教育というものには社会性の強制という部分があります。極論ですが単に知識を得るだけなら、学校という場は必要ありません。それでも教育を受けることを国民の権利と見るならば、どうしても学校教育のような形が必要になると思います。ですからそこに馴染めない少数は堂々と配慮を求めるべきですし、それに応える制度が作られてよいと考えます。そしてその子達は学校教育から(配慮として)一旦離れ、望むなら後にそこに復帰するパスをきちんと作ればよいのではないでしょうか?
 昨年度までの大検(大学入学資格検定)、そして今年度からの高認(高等学校卒業程度認定試験)のように今でも大学の時点で復帰するパスはあります。私の大学の友人の一人も、高校へ行かずに大検から入試という魁みたいな一人でした。親が私塾をやっていて、兄妹皆高校へ行かなかったはずです。彼のお兄さんを主人公としてドラマ化されてもいました。この道をもっと下の方にも増やす方向が考えられればよいのではないかと思います。


 学校教育を受けることを「皆と同じものを手にする権利」として考えるご家族が多ければ、おそらくこの試みはうまくいかないでしょう。ですが子供のことを考えたとき、親は皆と全く同じ権利を諦める必要があります。そしていろいろな意味で家庭にかかるコストは大きくなるでしょう。費用的なものだけでなく、時間や手間は他の家よりかけなければなりません。制度的なサポートは徐々に充実させていかなければならないとしても、それでカバーしきれるものではないことを自覚する必要はあると思います。
 またこれを選別と考えたり、学校教育から離れることが落伍とみなされるようでも制度は機能しにくいでしょう。これは思ったより実現性が難しいのかもしれません。「平等」というところを皆で見直すことが大事です。

 条件の平等というのは、たしかに正義のための基本的要件ではあるが、にもかかわらず近代人類の最大にしてもっとも当てにならむ冒険的企ての一つなのだ。諸条件が似たりよったりになればなるほど、現に人々のあいだにある差異は説明がつかなくなり、それだけにいっそう個人間および集団間の不均等は増してしまう。
ハンナ・アーレント全体主義の起源(第一巻)』みすず書房、1972)

 ここでアーレントが語っているのは「平等が政治的概念から社会的概念になってしまう」という近代の倒錯です。平等は政治組織を機能させる一つの運用原理だったわけですが、それがいつの間にか「われわれはみなひとしく人間である」という啓蒙主義的主張によって近代の(文句を差し挟めない)理想となってしまったということが言われています。(そしてそれが反ってユダヤ的差異を強調してしまったと話は続きますが、ここではそこらへんは取り上げることはしません…)


 一旦ここで簡単にまとめますと、初等教育においては「教育を受ける姿勢を学ぶ」というメタ教育の視点が重要であり、それが疎かになっているのが問題なのだと私は考えています。ここに目を向けた改善が必要です。しかしそこにうまく嵌らない子は必ず出てくるでしょうから、それらの子には別の道を用意し、学校教育の改善という場からは離れてもらいます。その上でDisciplineを建て直すという方向が望まれると思っているのです。
 長くなりますのでこの続きはまた後にでも…

*1:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』新潮社、1977