メタ教育についての補遺

 親から学ぶ、共同体の先輩から学ぶ、そういった身近な場で知識や技術を習得するというのはおそらく人間の歴史の始まりからあったことだと思います。それに比べ学校教育というのはとても人工的な環境ですし、とにかくそこに放り込めば皆うまくやれるなどという期待はできないところでしょう。 比較的早く馴れることのできる者から、なかなか馴染めない者までいろいろ出て当然です。だからこそなるべく多くの子供がこれに馴れるためには、意図的にメタ教育*1を受ける必要があると思います。そしてその機能を担うのが幼稚園であり、小学校という初等教育であると考えます。


 幼稚園教育は普通教育ではありませんから*2小学校教育以降として考えても、そこでは先生の教えることを信じるという「学校教育形式の最初」を学び、他に中等教育以降のドライな授業形式の最初の段階を学んだり、教えてもらうだけでなく自分でも調べて学ぶという態度を習得し始めます。これが成功して初めてその次の段階からの「教育」に馴染めるのではないかと思うのです。
 中等教育以降は、たとえばそのエッセンスが予備校にあるように、先生が授業時にだけ教室へやってきて授業をし終われば帰っていくという「知識の伝達」の面があらわになってきますが、「学校という場で教育を受けるための教育」をしっかり受けていない子供にとっては、それだけ大きなストレスがかかるのではないでしょうか。


 さて昨日の日記の記述が少々構成を崩していたのは、私が欲張って体罰のことも書こうかと思っていたからでもありました。体罰自体が学校教育法で禁止されている以上、安易にそれを容認することはできませんし、私自身体罰初等教育の混乱を正す効果的な手段とは考えておりません。それが有効な場面は極めて限定的だと思うのです。

学校教育法 第11条(懲戒)
 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。


(参考)法務府の見解(「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」)
(ア)用便に行かせなかったり、食事時間を過ぎても教室に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから、体罰となり、学校教育法に違反する。
(イ)遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことは、たとえ短時間でも、義務教育では許されない。
(ウ)授業時間中怠けたり、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。
(エ)人の物を盗んだり、こわしたりした場合など、こらしめる意味で、体罰にならない程度に、放課後残しても差し支えない。
(オ)盗みの場合などその生徒や証人を放課後訊問することはよいが、自白や供述を強制してはならない。
(カ)遅刻や怠けたことによって、掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別や、酷使はいけない。
(キ)遅刻防止のための合同登校は構わないが、軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。


 そして、学校教育に幼少時において不向きな者を無理にそこに押し込めることを止めれば、体罰という強制力を行使しなくても、学校が規律(Discipline)を維持することは可能だと思っています。この意味でも意識的にメタ教育を行って、その時点で強制するのが妥当ではないと思われる子供には別のパスを与えるべきです。その道は、いくつかの段階での学校教育への復帰を妨げるものではなく、また本人の意思次第では学校教育と最後まで拘わらずに社会へ出る道というものも確保したいですね。(社会性の訓練というものも考えねばなりませんが)
 実際はこの実現のために親の覚悟や負担、教育基本法の改定、国の経費・コストの増加などという様々なクリアすべき障害があるでしょう。ですから現実には「メタ教育」を意識して考えながら、最終目標としてこういうことを目指すという地道な準備期間が要るのではないかと思います。


 メタ教育は社会的に生きるという態度を身に付けることでもありますから、寄宿舎的なものでもなければ、学校という現場だけで習得させるのは困難です。かならず家庭の教育がそこに必要になります。そして教員への信頼というもの一つをとっても、家族が教員を信じていない態度を見せる場合には子供がそれを身に付けるのは困難です。「知識の習得」という面では学校に任せることはできましょうが、教わる態度を学ぶには家庭のプレ教育がなくてどうしてそれが可能でしょう。
 この意味で、初等教育に問題を見る方は「学校」だけに責任を負わせることなくそれぞれの問題としてこれを考えていくことが必要であると思っております。

*1:教育を受ける姿勢を学ぶ教育

*2:教育基本法で定める9年の普通教育には入りません