意思と責任

 上記ケースで元夫側の意見によれば、彼は離婚調停に入って以降その妻との間に子供をつくる「意思」はなく、性交渉を行っていないのに凍結精子を勝手に使用されて、その出来た子供に「責任」があるとされています。これは主意主義的に見れば全く間尺にあわないことでしょう。同情できることだとは思います。
 しかし責任というものは形式的に担わされることも一般にあり、それは責任を持ってもらわなければ不利益を被ることになる「弱者」のためにもあります。このケースで一番の弱者は生まれて来た子供です。裁判所は「父親が生まれてきた子供の養育義務を負う」という古めかしい法理を持ち出してきて、凍結精子による受胎という「きわめて現代的な生命倫理問題」において赤ちゃんの利益を守ったと言えます。もちろん同時に守られた母親の利益のことを考えると納得できない、と思われる方もいらっしゃるでしょうが(笑) 実際離婚直前のタイミングの受胎でもあり、元妻側に「あくどい意図」を想像することもできますが、子供に罪はありませんし証明されないことはいくら言っても始まりません。また元妻が夫のサインを偽筆していたという最悪の想像をしたとしても、夫側が無過失とも言えないでしょう。離婚調停に入ったときに、忘れずに凍結精子の使用を禁じておくとか廃棄させておくという手段は取れたわけですから…。もっとも、裁判所はあえて偽筆問題を避けた判決を下したのではないかとちょっと思います(単なる憶測です)。
 実子であることは鑑定済みですし、いろいろ思うところもありましょうが、お父さんにはきちんと義務を果たされることを望みます。


 ただしこの元夫に責任が生じたとして、それは誰かが非難・批判すべき類の責任ではありません。夫が判決で決まった責任を果たすのを拒んだときには当然責められるでしょうが、少なくとも彼の意思が働かないところで発生した事態について彼を責めることはおかしいことでしょう。せめてそれを認めなければ、夫側に立つ瀬がないと思います。「意思」は無かったのですから…


 さてこのように責任がどこかで取られる場合ならばよいでしょうが、もし上の元夫に子供を扶養する能力が無い場合など、どこにも持っていけない「弱者」の不利益があるとします。現在ではそれは国家(社会)が最終的に援助・救済するものとなっています。前近代ではこの機能を近隣のコミュニティーや宗教団体などが多く果たしておりました。いずれにせよ、どこかで弱い立場の人が救われるべきと考えるのは、現在の社会で共通に持たれる通念でしょう。私も近代社会のこのシステムは十分評価できると思っていますし、社会が税金を福祉に使うことに異論がある人はほとんどいないと考えます。広い意味での相互扶助ということですね。


 ただ上記夫の立場とよく似ていると思うのですが、最終的に扶助する責任を負わされる国家(社会)というものについては、悪し様に非難する人は結構しばしば見かけますね。もちろん明らかに責任を取りたがらない場合や、明確な問題先送りの意思があったような「不作為」については批判すべきでしょうが、何だか「国が全知全能でない」から「理想的でない」からという理由で責めている場合も見られるような気がします。私は国(社会)は私たちの代表として動いているはずだし、動いて欲しいと思っていますので、国家権力としてそれを考えるばかりで自分たちと敵対するものとする考えにはあまり馴染めません。そこら辺のずれも感じてしまっているのかなとも思います…
 少なくとも、国が使う力は(お金=税金というものも含めて)私たちが付与しているものです。その意味でも、弱者救済に用いるコストの見直しぐらいはさせて良いと私などは思います。適所に適度に援助が向けられるためにもそれは必要でしょう。それについて「弱者を疑うのは悪いこと」みたいな言辞がなされるのは心外ですし、そのコスト見直し自体をタブー化するのにははっきり反対です。具体的な弱者がどれだけ困っているのかは、私は国にはっきり把握して欲しいと思います。そしてそれがかえって一部の困窮をはっきりもたらすものであれば、それについて声を挙げるのは全く正しいでしょう。及ばずながらそういう呼びかけには応えられることがあれば応えます。こういう考え方は「弱者切捨て」ではないと思うのですが…。


 なんとなく上の事例からこんなことを考えてみました。