そこに生れたこと

 土曜日に書店に行き、そこで阿川尚之氏の『憲法で読むアメリカ史(上)』(PHP新書318)を購入しました。ページを繰り始めた第一章の冒頭あたりに、前回の合衆国大統領就任演説の言葉が引用されていました

 世代を超えてアメリカを束ねるかずかずの永続的な価値。そのなかでもっとも偉大なのは、すべての人が社会の重要な一員であり、すべての人に機会が与えられており、意味のない人生というものは一つもないという信念である。われわれ一人ひとりが日々の生活を通じ、また法律を通じて、この理想を実現すべく求められている。時にその努力は妨げられ、時にその歩みは遅々たるものであるとしても、われわれはこの道からいささかも外れてはならない。

 そうです。直前の大統領就任演説でこの言葉を語ったのは、第四十三代大統領ジョージ・W・ブッシュです。2001年1月20日のことでした。
 もちろんリベラルな方々に評判の悪い?ブッシュ大統領ですから「嘘だ!」とかいう声も聞こえてきそうですが(苦笑)私がその時思ったのはこの演説の当否とかではなく、大統領就任式に国民に伝えるべきとして考えられたそのメッセージでした。


 それは「あなたの人生にとってアメリカ合衆国で生れたということに意味があるんだよ」というものです。アメリカがその国民に、公式にそういうメッセージを呼びかけていることにちょっとびっくりしたのです。


 よく考えてみれば日本に生れても「国民の義務と権利」というものはあります(>日本国憲法)。つまりは明言されるかされないかは別にしても、近現代の諸国家ではその国に生れたことが一定の意味を持つということは前提になっているといえるでしょう。
 「その国」に生れてきた意味は、歴史的状況やその環境によって重くなったり軽くなったりすることもあるとは思います。たとえば現代のアメリカに生れてくるにしても、ヒスパニックに生れるかアフロ・アメリカンに生れるかコーカソイドに生れるか等々の方が重要と思われる場合もあるでしょう。いえ、それよりも裕福に生れるか貧乏に生れるかが大きく関わるという意見もあるかもしれませんし、男に生れるか女に生れるか、あるいは東部に生れるか中西部に生れるかが大きく人生を変える場合だって考えられなくはありません。
 しかしそれでも「アメリカに生れること」の持つ意味は少なくないはずです(国籍が属地主義で与えられるということもありますし)。そしてそこに重要な意味があり、この国が体現する価値を守り育てることを求められているんだということを教え、要求していたのがこの就任演説の一節であったわけです。


 そこに生まれたこと(そしてそこで育つこと)というのは言わば運命的なものです。それをどう捉えるかは各自に任されていると言ってよいでしょうが、その国で生まれ育つということを必要以上に軽んじることはできないと思います。
 誰も生れたくて生れてきたんじゃない…というのは一面の真実ですが、生れてきた以上人はそこにできるだけ意味を探そうとします。その意味の一翼を担うものに、そこで生まれてきたことというのも考えてよいはずです。ならばその運命は愛したいと思ってしかるべきでは?


 国レベルの「そこに生まれたこと」のみを重視する必要もありませんが、そのレベルでそれを考えてもいいはずです。そしてできればそれはニュートラルに語られるようになって欲しいものですし、運命愛がそのレベルに向かうのも私は特に不自然には思えないのです。

ちょっとおまけに

 レイシズム(racism)については「差別主義」という妙な訳語が出回っていますが、私は当然これは「人種主義」とか「民族主義」と訳すべきだと考えます。またナショナリズムは広い意味を持ち、「国家主義」「国民主義」そして「民族主義」などと訳され、確かに一面でレイシズムと通じるような側面も持っているでしょう。それは否定しません。ただやはりナショナリズムレイシズムではないわけです。
 ナショナリズムの負の側面を否定するために、それを全面的に悪いものと考えるのはおかしいです。そしてそういう観点を強いられていると、素直に自分の運命が愛せなくなってしまいます。これはちょっと苦しいことです。さらにその国で生まれたことを負の遺産>呪いみたいに言われては、立つ瀬が無くなります。「日本人は謝れ」みたいに言われるというのはそういうことです。
 数日前、戦後の混乱で日本人の父親や家族が連行され、日本国籍を持たないままフィリピンで育った方々の来日が報じられていました。こちらの朝日の記事「日本人と認めて」 フィリピン残留日本人2世来日では、

 敗戦後は、反日感情が強かったため、日本人の子という身分を隠して生活しなくてはならず、貧しい生活を強いられた人も多い。

 と書かれていますが、NHKの報道でしたか「日本人ということで差別されて育った」とストレートな表現でこの方たちの苦労が語られていました。日本人であることは、別にそれだけで差別する側にいるということと結び付けられることではないのです。差別される側にまわることも当然ありますし、差別する者もいるだろうということですね。


 日本に生まれてきたということから、先の大戦の歴史をしっかり知るというモチベーションが生まれるならばそれはとても良いことだと考えますし、その戦いで失われた命に(敵も味方も、民間人にも軍属にも)追悼の気持ちを持つならばなお良いことではないかと思います。ただその歴史を知るという行為は、できるだけ客観的に偏らず、そして妙な「罪悪感」無しで行われるべきではないかとも愚考しますが。