種主義2

 私がはっきりこの「種主義」の語を聞いたのは、河野修一郎さんの『科学という名の悪徳』(みすず書房)という小論でした。河野さんは農薬問題にお詳しい論者ですが、そこでは典型的な東洋−西洋対比による「種主義批判」が展開されておりました(ですが初期のエポックメイキングな労作だと認識しております)。

人種と階級による差別より先に、本能的に進行して肥大したのが種による差別(スピーシージズム)だった。人類が万物の霊長であるということに疑問をさしはさむ余地はなかったし、また、人類が地球上のすべての動物を食用に供することに異議を申し立てる動物もいなかった。動物が家畜化され財産として扱われるに至って、牛、馬、豚、羊、鶏などの隷属は決定的となった。

 この視点は、洋の東西を問わず「種主義」にはまりがちだという傾向をおっしゃっているのだと思います。むしろ人間の持つ根源的な差別心、という感じでこれを紹介するものです。ですが話は、近代に支配的な西洋文明へと向かいます。

知的能力の程度によって人種を序列し、序列の枠外に動物たちを配置したのは古代ギリシャの哲学者たちだった。文明を持った理性的な人種に、野蛮人は奴隷として仕えるべきだという思想である。こうした思想に加えてユダヤ教キリスト教の思想がヨーロッパの知性の中心的な柱となっていった。

 ヘレネスバルバロイの区別、そこに理性中心主義の端緒を見るわけですね。昨日触れたユダヤキリスト教伝統とあいまってこの流れは定着し、そしてそれが近代へ続くと河野氏は考えられます。

近代科学の祖といわれる哲学者や科学者たちもキリスト教の神と共にあった。デカルトにしても、ニュートンにしても、神の意図のすばらしさを証明するために自説を用いたし、そのような緻密な思考ができることに神の存在を感じた。その間、一貫して動物たちは喜怒哀楽を感じない物質として扱われてきた。
デカルトの「動物機械」という発想は、冷徹さを通り越して乱暴かつ残酷でさえある。彼は生きた動物を切り開いて、心臓が動くところを観察し、苦痛のうめき声をあげるのを機械の発する音と同種のものと考えている。
 言葉を持ち、理性を持つ人間は神の形をしているという誇りが、必要以上に動物を虐待し搾取することを許すことになる。


 昨日のid:antonianさんのコメントでは、

 創世記にあるように神の被造物である動物やなにかを治めるというのはそれに責任があるということでもあり、都合よく利用するだけではいけない、保護する責任と義務があるのだという、そういう考えの経緯なのではないでしょうか。 確かに人間は他の種を滅ぼすほどの力を所持しているわけで

というように、単純に『創世記』を持ち出してそれを人間による支配の正当化の記述とすることへの疑問が呈されていました。これも一つ説得力を持つ言葉だと思います。また別のコメントでも、フランシスカンの「被造物は皆兄弟姉妹」というような考え方を紹介していただきましたが、やはり旧約の一節のような断片でキリスト教の思想傾向を断じるということには危うさがあると考えます。「種主義」については、思想史的文脈の中で採り上げなおされる必要があるでしょう。
 少なくともギリシア思想や旧約の世界から「近代」へ思想傾向を直結させるのにはやや無理を感じます。また、日本のことに触れて動物へのかかわりを語るのも、

 東洋の仏教圏の一国として、歴史的に生き物に対する憐れみの情けは深いものがあったし、地方によっては猿や鳥が神の使者と考えられたこともあった。殺生を繰り返す者に対して、生きとし生けるもの、いつくしむべきであると教えた。これにそむく者には悪い報いがあると警告もしている。八世紀末までに南都薬師寺の僧景戒の手で成ったとみられる「霊異記」には、たとえば、上巻第十六「慈の心无くして生ける兎の皮を剥りて現に悪報を得し縁」にみるように殺生を戒め、また一方では動物たちを助けてやった場合の現世での不思議なありがたい出来事を対比している。仏法への尊敬と帰依を説くものではあるが、上巻第二「狐を妻として子を生ましめし縁」や中巻第四十一「女人大きなる蛇に婚せられ薬の力に頼りて命を全くすること得し縁」など、人間と動物の渾然一体を語り、人が因果により蛇、馬、牛、犬、鳥などに生まれ変わることがあると説いている。

 このように『日本国善悪現報霊異記』を引いて、その後「霊異記的世界」と一括りに語られておりますが、これもまた議論としては性急なものではないかと考えます。


 しかし河野さんの記述は、特にお詳しい農業関係の領域に関してはとても鋭く、読ませるものとなっております。

家畜の大量密飼いの現状は凄まじいものがある。ブロイラー化という言葉は養鶏の場を離れて、同一規格の動物を簡便に大量に飼育する場合の代名詞になった。大量密飼いを可能にした背景には、サルファ剤や抗生物質、さらに日光に当らなくても済むビタミンAとDの普及があった。(サルファ剤はスルファ剤とも呼ばれ、正式にはスルホンアミド剤と称する。膿性・細菌性疾患の治療薬として一九三〇年代に登場したが、その後、ペニシリンの登場で使用場面は減少した。しかし、価格が比較的に廉価なこと、耐性菌の発生が稀なこと、抗菌力の相乗効果を期待できる他剤の開発などもあって、現在も医薬として使用され続けている。副作用としては、胃腸障害、血液障害、腎障害、肝障害、神経症状などがあげられる。)

 近代農業批判が近代批判へと結びつき、そこに題材の一つとして「種主義」があると考えれば、流れは一貫しますしとても興味深いテーマに思われます。
 自分が賛同できるか否か、あるいは自分の政治的立場がどうこうという次元を抜きにして、この「種による差別(スピーシージズム)」という着眼点は、私たちに新しいものの見え方を教えてくれるものだと思いますし、今後も注目していきたいと考えています。