When in Rome...

 昨日の日記で、ローマ議会の「金魚鉢の使用を禁止する条例」のニュースを紹介しましたが、

 When in Rome, do as the Romans do.

 とは有名な諺ですので、私もローマに行ってまで文句をつける気はさらさらございません(笑)


 さてこれは「郷に入らば郷に従え」に相当するものだと言われますが、この諺をもともとの意味とちょっと異なるような文脈でこの頃よく耳にするような気がいたします。 それは文化相対主義が語られる文脈です。

 文化相対主義はとは、「それぞれの文化には独自の価値があり、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめることはできない」というものであり、十九世紀的な文化の斉一的発展諸段階説とその根本にあるヨーロッパ精神の普遍性への信仰を内部から批判する考え方として登場した。そしてそれは、二〇世紀半ばのアジア・アフリカにおけるナショナリズムの高揚の中で、新興国民国家の文化的自立を保証することに大きく貢献した。
(北村光二「文化相対主義を超えて」創文2000.6)

郷に入らば…の言葉が、異文化の中にあってその文化に配慮しない者への文句として最近聞かれるというのが私の感想です。上の記述にもあるようにもともと文化相対主義は、近代ヨーロッパへの内部批判として人類学的営為の中から生れてきた考えであり、異文化への尊重とそれに基づく共存への道を志向するものであったはずです。しかし「郷に従え」という命令形は、寛容な共存への道というよりは、ともすれば異質なものへの排除の響きすらそこに含んでいるような気もするのです。


 北村氏は次のようにも語られます。

 それ(引用者注:文化相対主義)がその背景となっていた歴史的・文化的状況から切り離されたとき、文化の差異の主張は、異文化間の理解の試みの放棄を正当化するものへと変質してしまうことになる。

 実際この相対主義に関しては「ねじれ」が顕在化していると思います。たとえば旧植民地の人々と西洋の支配的風潮を一緒になって責めるリベラルの方々が、その国々の偏狭なナショナリズムに対して何も言えなかったり、文化相対主義を盾に自国文化を擁護する保守派の方々が、他国にもの申すのを批判されたり…。いずれも文化相対主義が味方にもなり敵にもなるという「諸刃の剣」的状況の中で出てくる「ねじれ」ではないかと思います。


 なにより相対主義はもともと「絶対」のものではなく、理論的には脆弱な一面を持っています。イギリスの倫理学者バーナード・ウィリアムスは相対主義の立場を次のように定義づけ、批判を加えました。

 文化相対主義の立場
1 「善い」という言葉は「ある特定の社会にとって善い」ということを意味する。 
2 ある社会の人々が、他の社会の価値や道徳的行動を批難したり干渉したりするのは不正である。 

 相対主義は明らかに一貫性を欠いている。なぜならそれは第二の命題において、他の社会のことを扱う上での正しいことと不正なことについて、ある主張をしているが、この主張は第一の命題では許されていない「正しい」ということの非相対的な意味を使っているからである。
 (バーナード・ウィリアムス『生き方について哲学は何が言えるか』産業図書、1993)

 相対主義的に二つの社会には「通訳(共約)不可能性」があるという前提に立つならば、どこそこが異なっているため通訳できないのだという正しい認識は(理論的に)不可能なはずということになるのです。
 したがって、文化相対主義を主張するものはその相対性の認識根拠に独断主義を隠し持っているという批判にさらされます。つまりその人は、自分(だけ)が二つの世界を客観的に認識していると(密かに)思い込んでいるのだということがあらわになってしまうのです。


 相対主義を厳密に主張すれば、異文化間の理解は原理的に不可能だという結論が導かれます。しかしそれは、「他者」を「他者」のままに置いておくというだけの不毛な帰結にしか思えません。
 もともと文化相対主義は「他者」を正当に「他者」として受け取ろうという試みだったと思います。この考えがもたらしたメリットは相当に大きかったと評価できるでしょう。
 しかし「他者」と真に出会い相互の交流が生まれるならば、自他ともに何らかの変容があるものではないかと私は考えます。むしろそこに変容がなければ、それは出会っていないに等しいのではないかと…。その変容は往々にして嘆かれることでもありますが、生きた人間を動物園に入れたり生きた社会を博物館に入れることはそもそも無理なことなのです。


 文化相対主義は、文化接触における一方的な優位に対して正当に疑義を唱えるものではあります。しかしその意義を過大に評価すれば、文化接触自体を否定し、異文化の排斥にすら結びつく契機にもなりかねません。それがあくまでも「相対的」で限界のある論理であることを意識しつつ、たとえば欧米の行為だけにそれを適用するなどというダブルスタンダードにならないように慎重に用いていかねばならないと思っております。


 「郷に入らば郷に従え」という言葉について、私はささやかにその使用を控えております。それは自戒の言葉としてはいいのですが、押し付けにならないように使うのはとても難しい言葉なのです。