追憶

uumin32005-11-05

 注目していた小田嶋さんの「ウヨ曲折」のコメント欄のやり取りがちょっとバトルになっていました(過去日記)。もうけりは付いたのですが、その記事を受けた「タケシ's」という記事で、

 生硬で、格式張っていて、知識人ぶった、文化主義的な、サロン教養人臭ふんぷんの、啓蒙的で、説教くさい、そしてなにより、冗談のわからない人間としての左翼。イコール、筑紫さん。ホント、魅力ないよね。


 政治的な事柄を話題にする時、私が、いつも幾分不真面目な態度で語っていることについて、腹を立てている向きがあることは承知している。
 が、いまや、笑いは右翼の専売特許になっている。
 対して、左翼陣営には、笑いの取れる人材が一人もいない。
 それを思えば、多少不謹慎でも、笑える左翼芸は、なんとしても盛り上げねばならない。
 左翼芸能フェスティバル。
 お笑い第九条全国コンテスト。
 靖国スラップスティックゲリラ。
 こういうものを誰かが立ち上げねばならない。
 オレ?
 やだよ。

 と、韜晦めかしたオチがつけられていました。もちろん鵜呑みにして賛成反対を言うのは無粋でしょうから、昨日久しぶりに見た映画(on DVD)の話でも…。


 それは『追憶』(The Way We Were, 1973)です。観たのは三回目で、最初にしても確か京一会館あたりでのリバイバル上映でした。二度目も10年ほど前のレンタルビデオ。そしてまた久しぶりに観たのですが、以前とはこちらの受け止め方が違っていましたね。


 『追憶』はバーブラ・ストライザンド主演、お相手がロバート・レッドフォードのロマンス映画です。背景はWW2前後のアメリカ。大学で左翼活動をするお堅いユダヤの女性ケイティ(バーブラ)がスポーツ万能で頭も良いイケメン(しかも大学の人気者)のハベル(レッドフォード)と出会い、人生が交錯し、そして…。という筋立て。
 監督のシドニー・ポラックが政治的背景を二人のすれ違いの一つの象徴、またケイティのキャラクター付けのポイントとして濃く使っていて(たとえばケイティの部屋には最初レーニンの肖像があり、それが戦中にはFDRの写真、そして戦後すぐにはスターリンの大きなポスターになっているなど)、初めて観た時などは左翼映画っぽく受け取ったものでした。
 なぜこの映画が個人的に気に入っているかと言えば、映画を観始めるときはお鼻の大きなユダヤ人女性のケイティを決してきれいな人とは思わないのに、観終えるころにはすごい美人でレッドフォードとお似合いに思えてくるような、そんな映画のマジックを最初に意識させられたものだったからです。


 ケイティはアメリカで典型的な左翼活動家として描かれ、世界の貧しさや圧制がいつも気になっている女性、ただ真面目(serious)で融通が利かず、ユーモアを解さないそういった女性としてキャラクター付けられています。パーティの席でも空気を読まずに政治談議をすぐしますし、政治家に対するジョークなどは不謹慎だと拒否するような、そういう変人なのです。
 そういう真面目で不器用な女性だけに、ハベルが気になり、彼を愛し、彼に合わせて生き方を変えようとするところなどはとてもいじらしく、そういうのがわかる観客は男女を問わず彼女が素敵に見えてくるという仕掛けであると思います。(この映画の時点で彼女はすでにスター歌手でしたが、アイドル映画とかいうものではありません)


 とにかく彼女は生硬で生真面目です。恋して自分を変えると誓っても、結局地金が出てしまいます。
 かつては、左翼運動に関わったからこういうある意味つまらない女性になっているのかとも思えました(その当時のアメリカでは当然そう受け取られたでしょう)が、今観返して見ると違いますね。彼女は真面目だったからそういう態度を取るのであり、左翼右翼どちらとたまたま出会っていたとしても同じように活動していたのかなと思えます。そしてそれは常にハベルのキャラクターとは摩擦を起こし、相容れないものになってしまうのでしょう。


 左翼が伸びやかに羽をのばしていられる時代、風潮であったならば、そこには一定数のおもしろいキャラクターがいるでしょうから「面白いサヨク」もあるでしょう。しかし戦前からマッカーシズムにいたるアメリカでは左翼的なものがある意味抑圧され、余裕のない左翼はユーモラスに動くことはできなかったのだと思います。それは一種の悪循環です。
 昨今の日本でも左翼的なものの退潮が見え、余裕のなさとしては同じようになってきているのでは? もちろん教条主義的な左翼運動という根っこも多分に影響しているでしょうが、左翼の幅だってそれなりに広く、教条主義的ではない社民主義などはヨーロッパで見ることができると思います。結局は追い詰められてジリ貧になると、どの立場にせよゆとりが無くなって笑いから遠ざかってしまう…そういうことではないでしょうか?


 今観るとこの映画はまあメロドラマです。よくよく観れば左翼的なものの主張という類の映画ではないことがわかります。それでも私は懐かしさだけでなく、この生真面目なケイティがとても可憐な女性に見えて、それだけでこの映画が支持できる…とても好きな映画だと思っています。