生命倫理学

 次の記事に少なからずショックを受けました。生命倫理学について前に書いたものをもとに、少しコメントしたいと思います。
 [解説]揺れるソウル大ES細胞研究

卵子提供巡る疑惑 韓国側に説明責任
 胚(はい)性幹細胞(ES細胞)研究で世界をリードする韓国ソウル大のチームが、卵子提供をめぐる疑惑で揺れている。(ワシントン支局・笹沢教一)


 京都大で15日に始まったES細胞の国際シンポジウム。世界で初めて人のクローン胚からES細胞を作ったソウル大のファン・ウソク教授が参加するはずが、開催直前に突然、欠席になった。ファン教授は、その研究倫理をめぐり、疑惑の渦中にあったのだ。(中略)


 生命倫理の観点で慎重になった日本や米国を横目に、ファン教授は成果を上げた。先月には米英の科学者の協力で世界初のES細胞バンクを設立、この分野をけん引する存在になろうとしていた。
 だが、バンク組織の代表に就任する予定だった米ピッツバーグ大のジェラルド・シャッテン教授は今月中旬、ファン教授との協力関係を断つと表明した。AP通信によると、カリフォルニア州不妊治療機関も関係断絶を示唆、米民間医療財団もバンクへの補助金支出を見合わせている。


 問題の発端は昨年5月、英科学誌が「研究チームの女子学生が卵子を提供した」と報じたことだった。女性の身体に負担をかける卵子提供は自発的でなければならない。教授と学生という、一方の立場が弱い関係で提供があったとすると、本人の同意が適正かどうかが疑問となる。


 ファン教授側は、女子学生の卵子提供自体を否定、「女子学生が英語力不足で科学誌の質問を誤解した」と釈明した。しかしシャッテン教授は今月中旬、「この問題で虚偽の事実が判明した」との声明を発表。再度釈明したファン教授は「韓国の倫理基準は満たした」と話したが、詳しい説明はなく、シャッテン教授に直接の反論はしなかった。
 仮に釈明にうそがあったとすると、研究者間の信頼関係だけでなく、世界初とされる成果自体も、妥当性を根底から揺るがしかねない問題だ。中辻憲夫・京都大再生医科学研究所長は「大きな問題になってしまい科学にとっては残念なことだ」と話す。


 米国では別のバンクを設立して、韓国依存をけん制する動きもあり、ブッシュ大統領がES細胞研究を厳しく規制する中、様々な政治的思惑が働いた可能性は否めない。韓国側からすればES細胞の世界戦略がつまずいた形だ。韓国は「疑惑」に対し、すみやかに説明する責任がある。(後略)
 (2005年11月16日 読売新聞)

生命倫理

 1970年代よりアメリカ合衆国を中心に生命倫理学という学問分野が形成されてきました。生老病死が一貫して人間の重要な問題であり、倫理学の淵源がアリストテレスの『ニコマコス倫理学』にあったと考える時、生命倫理学という学問分野が20世紀中葉を過ぎたあたりで登場したというのは意外にも遅いものだという感は否めないでしょう。
 アリストテレスAristoteles, B.C.384-322)が求めたのは「われわれはどうすれば「よく生きる」ことができるのか」という問いでした。彼はこの問題を『ニコマコス倫理学』の中で「われわれが生きているとはどういうことなのか」という問いと「われわれにとって「よく生きる」とはどういうことなのか」という二つの問いに切りわけて考察しています。
 この二つの問いのうち前者は、われわれが生命体として当然知っているはずの「生きる」ことの根拠を問い直すという意味で正しく哲学的営為と考えられます。自明と思われることを疑い、問い直すところに哲学の根本精神があるからです。また後者には、社会的動物である人間のその集団の中での在り方を問わねばならない側面があり、この意味で社会科学に通じるものを持ちます。善なるものを考えるという行為、そこに含まれる価値判断は、決して個人に限定して解を探せるものではないからであり、これが倫理学を哲学とは異なる分野として成立させる根本にあるのです。


 しかしこの二つの部分の両立が要請される倫理学は、二重の部分に引き裂かれているとも言えるでしょう。前者の哲学的側面は、時代・地域に拘らない普遍妥当なものを探る営為であり、後者の社会的価値の考察に関わる側面は、時代性・地域性に根ざした社会の在り方に左右される相対的な価値というものに基づく営為だからです。例えばアリストテレスの哲学的姿勢は今なお人々の指針となり得ますし、倫理学という学問分野としてそれが営々と追求されてきていますが、彼の見出した古代ギリシアの倫理規範、ポリスの学としての当時の政治学に基本原理を与える倫理学という側面は、今地球上のどこにも正当な適用の場をもたないものとなっています。


 現在倫理学は大まかに三つのアプローチを持ちます。規範倫理学と記述倫理学(倫理思想史)、それにメタ倫理学と呼ばれる分野です。規範倫理学は、一定の行為を「良い/悪い」と判断する根拠や「〜すべきだ/〜してはならない」という当為の根拠を考察する学問であり、記述倫理学は特定の時代、特定の文化を持った社会での倫理や思想を研究し、規範倫理学に考究の素材を与える学問です。そしてメタ倫理学は、倫理的判断を支える「よい」、「すべし」などの言辞の意味を問い、倫理学全体の研究の領域を確定する学問とされています。


 生命倫理学は規範倫理学的アプローチを採る学問分野であり、生命の意味や医療に関する分野に特化した倫理学のサブブランチの学問であると考えられます。従来、医療の分野での倫理は、『ヒポクラテスの誓い』や『ナイチンゲール誓詞』に見られるように、医療従事者側のみの、「Do not harm(害するなかれ)」という言葉に集約されるような単純かつ絶対的な格率(マキシム)に支えられるものでした。ここに医療の受益者たる患者側の視点や人類全体としての観点などをとり入れ、また自明であった対象―人間の再考の必要性などにより成立してきたのが「Bioethics(生命倫理学)」なのです。
 バイオエシックス登場の思想的底流に、アメリカの公民権運動以来の市民運動的思潮が契機としてあったことはつとに指摘されるところです。医療従事者の指示を我慢して待つ者「patient(耐える者=患者)」の立場から、対価を払い医療サービスを購う者「consumer(消費者)」の立場へと意識が変容し、医師の側の「paternarism(パターナリズム、父権主義)」への異議申し立てが新しい視点の倫理学を要請したのは一つの事実でしょう。
 またbioethicsという言葉自体が、当初は「the science of survival(生き残りの科学)」として1970年にファン・レンセラー・ポッターによって提唱されたということも忘れてはなりません。これは農薬などの化学物質の汚染、大量破壊兵器の登場など近現代の科学分野の進歩が、諸刃の剣として人類全体の存続を危うくするという視点から語られた言葉であり、レイチェル・カーソンらの問題意識から発展して来たもので、環境倫理的側面でのバイオエシックスを言うものです。


 生命倫理学とは、これら多岐にわたる新たな問題に対応するために登場した学問です。そしてそれは、絶対の解、唯一の正答をもたらす学問ではありません。これは一つには倫理学という学問の性格によります。先述したように、倫理学は相対的な各々の社会の中での善悪当否について考究する性格を持ち、それゆえ学的営為として最終的なただ一つの結論を持ち得ないのです。またこれに多少なりとも関係しますが、生命倫理学が抱える各々の問題は、それを考える者の立場によって見え方を異にします。それを医療従事者の立場で見るか、患者の立場で考えるか。臓器移植を必要とする患者の家族の立場で見るか、出産を控えた妊婦や配偶者の立場で考えるか。そして人間の生死に介入するのは神をも恐れぬ行為であると思うか、科学の発展は人類の福祉の向上に必ずや結びつくと信じるか…。これら立場の違いは、一つの問題に異なった価値基準からの光を照射し、自ずから違った結論へとわれわれを導くことにもなるでしょう。言葉を換えれば生命倫理学は、各々の立場というものに拠らなければ深い考察や暫定的な結論にすら至るのが難しいものなのです。


 生命倫理学を考究することは、各人の社会における己の位置、問題に対するスタンスを逆照射するものでもあると考えます。そして生命倫理学の最大の意義は、自らの限定的な立場に気づき、そこからまがりなりにも自分の問題として倫理を考え、暫定的にも「時に臨んでの最善なるもの」に対しての合意形成を目指すところにあると考えられるのではないでしょうか。

コメント

 ソウル大のファン教授が「適当な時期にすべてを明らかにする」(参照)として、すぐに釈明しないことが疑惑をさらに深めています。ここまで事態が大きくなった以上、事実関係をいつまでも秘するわけにはいきません。疑惑が事実であれ誤解であれ、早急に対応しないことは不誠実と言わざるを得ません。これはこと彼一人、もしくはソウル大の名誉問題よりさらに深い問題であり、ES細胞研究そのものや人間の胚を使用した医学的実験全般に対する不信を招きかねない問題です。
 日本において札幌医大の和田教授による心臓移植疑惑(参照)が、その後の移植医療の進展に大きくブレーキを掛けたということはしばしば言われるところです。さらにそれは現在の医療不信にも影響しているとも言われています。
 移植医療には賛否あろうと思いますが、こういう不適切な事例で一方の可能性を大きく阻害するのは途方もなく悲劇的なことと考えます。生命倫理が人間全体に関わるものである以上、ファン教授の態度はすべての人間に対して不利益をもたらしかねない非難されるべき態度であると私は思います。