歴史教科書内部批判

 「韓国の高校の近・現代史教科書、理念的に偏っている」(上)

 韓国歴史学の重鎮・崔文衡教授の韓国高校歴史教科書批判


 「韓国の高校の近・現代史教科書は、民族統一志向の民衆・民族主義に陥っている。感傷的な民族主義と、民衆至上主義に陶酔し、国益まで損ねる結果につながるのではないかと懸念せざるを得ない」
 歴史学の重鎮、漢陽(ハニャン)大学の崔文衡(チェ・ムンヒョン/70)名誉教授が、「現行の高校の近・現代史教科書は、大韓帝国期の韓半島の運命を決定付けた国際関係をきちんと記述しておらず、生徒たちに偏見と固定観念を植えつけ視野を狭めさせてしまう恐れがある」と批判した。
 崔教授は金星(クムソン)出版社、大韓(テハン)教科書、中央(チュンアン)教育振興、斗山(トゥサン)など、6つの高校近・現代史教科書を検討した結果、「編成上の不均衡と事実関係の誤認が深刻だ」と指摘した。(中略)


 崔教授は「日帝が、乙巳条約(日帝による朝鮮の外交権剥奪)の後、韓国を完全に併合するまでに5年間もかかった理由は、義兵による抗争のためだった」という金星出版社教科書の記述も「歴史歪曲」と批判した。
 「満州をめぐってロシアと米国が日本を牽制したため、日本が韓国の合併を一度に無理に進めことが難しくなった。こうした状況説明もなしに、その原因が韓国人による『義兵抗争』にあったと主張するのは、嘲笑の対象にしかならない」
(後略)
朝鮮日報 強調は引用者)

 考え方としては極めてまともな発言かと思います。もちろん記事中に違和感を覚えるような認識もありますが、方向としては同意できるものでしょう。(同記事の後編は「韓国の高校近代・現代史教科書、理念的に偏っている」(下)(←こちら)
 で、上記『義兵抗争』について私がかつて書いていたものがありましたので、備忘として記しておきます。

反日義兵運動

 反日義兵運動は「衛正斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行なった1890年代の初期義兵運動を継承した反日武装闘争です。それはほとんど朝鮮全土に及ぶ戦いでしたが、それが国民運動ではなかったため(朝鮮がまだ国民国家ではなかったため)、併合までにほとんど鎮圧されてしまったのだと思います。


 日韓第3次協約(大韓帝国の内政まで日本の統監の指揮下に置くというもの)の直後の1907年8月にその軍隊の解散命令が出されて以降、大韓帝国全土において反日義兵運動が活発化します。ここへの参加者は日本側の資料(朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』)ではありますが


 1907年 …44,116名 1908年 …69,832名 1909年 …25,763名 1910年 … 1,892名


 という数字が出ています。これに対して1907年の時点での駐留日本軍は二千数百名。その後増補されましたが、最大でも数千名です。義兵運動には元の大韓帝国軍兵士も参加しており、日本軍に対して貧弱だったかもしれませんが武装した勢力でもありました。このおよそ3年半、延べ14万人にのぼる義兵運動の結果としては、次のような結果が出ております。


 義兵側:死者17,688名 負傷者3,800名 捕虜1,933名
 日本軍:死者133名 負傷者269名


 圧倒的に数的優位にありながらこれだけの被害差がでている理由は何でしょうか?武器弾薬の差でしょうか?もちろんそれも重要な要素です。それは武器弾薬を含めた兵站(logistics)の差でもありました。義兵側には弾薬はおろか兵糧の補給もありませんでしたから、基本的に彼らは農村から徴発しなければならなかったのです。


 そして農村の人たちに「国民意識」は希薄で、農民にとっては義兵は「解放軍」ではなく自分たちの物資を奪う「匪賊」と同様にうけとられたという記録が日本側に残っております。のみならず農民は義兵に関する情報を日本軍に通報し、日本軍は義兵を各個撃破できたのです。国民国家成立以後でしたら、これら農民の行動は「売国行為」でありましょうが、それ以前の農民にとっては、上にだれが来ようが自分たちの暮らしが第一ですし、日本軍や憲兵を「治安を守ってくれる味方」と認識しても、何の不思議もないのです。


 義兵軍がただ一度日本軍に対して勝機を得たことがあります。それは1907年の12月のことで、この時だけは全国の義兵による連合部隊がもくろまれ、一万名規模の兵力が結集してソウル進攻が計画されていました。ただこの時、全軍の総大将である江原道義兵の指導者、李麟栄は進軍直前に父の死の報に接し、喪に服するため戦線を離脱して帰郷してしまっていました。
 このため全体を指揮する者を欠いた連合軍はまとまりを欠き、先行した二千名の先遣部隊がソウル近郊で破れたことによって敗北してしまいます。この後、地域を超えた大規模な連合軍が結成されることはなかったといいます。李麟栄は「儒者両班」としての自分を「国民」としての自分よりも優先させたのです。国民国家が成立する以前の人々にとっては、その身分に忠実であろうとする意識の方が国民としての自分よりも強いものなのでしょう。

 (義兵たちは)組織を超え、地域を超えて横へとつながる大同団結ができなかったのである。私はここに、義兵大敗の根本原因があるのではないかと思っている。…李朝−韓国が、家族(血縁)を超えて地域的な連帯へ、地域を超えて国家的な連帯へという大きな流れを、併合時に至るまで生みだすことができなかったことだけは、たしかであった
 (呉善花韓国併合への道』文春新書)


 私が主張したかったのは、反日義兵の時点(併合以前)では朝鮮にしっかりしたした国民国家は存在せず、そのために日本が併合できたのではないかということでした。もし朝鮮が国民国家であれば、つまりほとんどの国民が大同団結できていれば、あるいは日本軍は義兵によって打ち負かされていたのではないでしょうか? もちろんその後の混乱には相当なものがあったでしょうが…

中央日報でも

 歴史教科書に関する批判的な声が採り上げられていますね。

 教科書フォーラム「中高校の近代・現代史教科書、民衆抗争史のよう」

「教科書というよりは民衆抗争史のような感じだ」。右派学者らの集い・教科書フォーラムが、今回は、中高校課程の近代史・現代史教科書の内容を批判している。今年初めにスタートした同フォーラムは、これまで経済・韓国史など中高校の教科書が、過度に自虐的であり、民族・民衆主義の見地から記述されているとし是正を求めてきた。 (中略)


キム・ジェホ全南(チョンナム)大教授はあらかじめ配った発表文「略奪と収奪だけの、近代経済のない近代史」を通じて、近代史・現代史の教科書が「変化に付いていけない『進歩的歴史観』を特筆大書している」と厳しく批判した。キム教授は、教科書が描いている近代には、略奪と収奪、そして『それに対する対抗ではない経済活動』は全く存在しない」と主張した。


貿易・利益・市場の合理性に関連した経済学の基礎が通用されていない、とのこと。キム教授はその理由として、現行の教科書が、植民支配時代(1910〜1945)の「抵抗」だけを強調し、「学習」の歴史には背を向けているため、と説明した。ひいては、偏向を越えたわい曲も行われている、と指摘した。


同氏は、土地調査事業の場合、当時、総督府の所有地に編入された土地は農地全体の2.66%にすぎず、「土地調査事業によって農民らが土地を奪われ小作農に転落した、というのは明確に歴史をわい曲したもの」と主張した。また、民族資本を抑圧した、と説明されている「会社令」についてもキム教授は「市場経済を支持するための財産権保障」の部分が見過ごされている、と指摘した。


キム教授は、その反対に会社令以降、日本資本のもとで朝鮮人の産業資本家が出現した、と話した。そのため「会社令がなかったら、民族資本が成長し日本人資本を圧倒できただろう、と記述するのは事態を糊塗するもの」という主張。最後にキム教授は「植民支配を通じて、自主的ではない変化の過程だったものの、韓国社会は近代社会に変化した」と結論付けた。


いわゆる「植民地近代化論」という見方。また「こうした客観的な自己認識から生まれてくる謙そんを通じて、韓国人は韓国の過去とお互いに対し、そして隣国に対し、もう少し寛大になれるだろう」と付け加えた。同シンポジウムには、漢陽(ハンヤン)大・崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授も発表者として臨む。 (後略)


者旻槿(チョ・ミングン)記者  中央日報 2005.12.14 18:09:49


 その人の主張がどうであれ、学問分野としての歴史学を修める方々からこういった話が今まで出てこなかった(あるいは単発で出てきてもつぶされていた)のが、とてもおかしいだけです。わりに当たり前のことを普通に語っているとしか見えません。別に「植民地近代化論」があろうが、それは歴史上の事柄であって、どちらの民族が上か下かという話とは本来異なるものなのですから…。