伝統の捉え方(捕捉)

 antonianさまにコメントをいただきました。とてもすっきりとまとめていただきましたが、まさに「日本という括りは近代において面によって括られた範疇であるがゆえに文化的なものというのは辺境では入り組んでいて必ずしも国境と一致はしない。しかし中心となる点があくまで日本という面の範囲である以上、それはやはり「日本文化」として分類される」ということは言えると考えます。まずこうして素朴に考えてみることは必要だと感じております。
 でもおそらくSchwaetzerさん(や、もしかしたらbluefox014さん)が捉えている問題点は少しずれたところにあると思うのです。それは私には

 「日本の伝統」という形で私たちが捉えるものは、それぞれの人が居住する地域の伝統を加えていった総体とは違うあり方をしているのではないか

 とでもいうところに見えるのですね(勘違いかもしれませんが)。
 私もこれを考えてみると、上記のことは言えると感じています。つまりそこに「日本の伝統」という概念を介在させて捉えられたそれぞれの地域の伝統は、すでに一定のバイアスを受けているといえるのではないかと…。


 しかし私はそのバイアスを意識したとしても、一回りしてきた反省によって捉えられるそれぞれの文化・伝統も結局「日本の伝統」というところを脱却したものではないと考えるのです。それがすでに私たちに「自然」なものとしてあるからです。
 Schwaetzerさんは修辞的に「日本の伝統は失われた」ということをおっしゃいますが、まさにそれを失われた「日本の伝統」として語るとき、実はそれが表象として実在化しているのではないでしょうか。そしてそれは、私などが感じる伝統への愛惜、郷愁と同様のものに見えたのですね。ですから、日本の伝統があるとか無いとかに拘られずに「伝統を相対化した上でそれを尊重するという立ち位置」を採りましょうよと申し上げたところがございます。
 bluefox014さんはもしかしたら、日本と言う枠組は相対化できて、そしてそれを相対化した向こうに何か新しいものが獲得できるとお考えなのではないかと私には感じられました。でも私には日本を相対化しきることはとても困難なことであり、万一それができたとしても単にデラシネになってしまうだけではないかと思えるのです。ですから、日本というものの解体は無意味ではありませんかと申し上げた次第です。


 そしてそこから「抜ける」ということができないようでも、捉えなおすことは可能だと思っていまして、今日書いたことなどは伝統というものとの関わりについての捉えなおしの一つの試みというものでした。楽屋裏でこういうところですね。
 もし私の提示する「捉えなおし」が魅力的であれば、納得するというのではなくても「日本の伝統」なんてフィクションだというようなことはおっしゃらなくていいということを感じてくれるはずと思いましたが、良く見ればそこまでできのよいものでもないですし…。こういう文はもっと練って書けばよかったです。
 ただ一つ私が感じていること、つまりそれを素朴に捉えても、反省して大回りに捉えても、結局は同じようなところにいるしかないのでは?ということは書き留めたく思いましたので、antonianさまのコメントをいいきっかけにしてこうして蛇足を連ねた次第です。
(※ここで「捉えなおし」というのは、伝統に縛られたり、あるいは伝統を否定したり…というどちらでもなく、伝統を楽にうけとめることができるようになる…というところをイメージした言葉です)