たとえば「天皇」は875年間も存在しなかった

 この国が長い歴史の中で時に応じて変容し、捉え直されてきたように、天皇や皇室、またそれを取り巻く状況も一様ではなかったと私は理解しています。不変の天皇制という「形」は無かったと見るのが当然でしょう。しかし今、立憲君主国という日本のあり方を問題視する気もさらさらありませんし、敗戦後新憲法で規定された象徴天皇制という枠組みをこのまま存続できればよいのではないかと思ってもいます。


 天皇という号が長きにわたって使われなかったのは事実です。Wikipedia「諡」の項目が妙に詳しくてびっくりしました(お時間があればご一読を)。ここにあるように「天皇」という言葉自体一つの諡号であったわけで、存命の帝に「天皇」という称号を使うことはかつてありませんでしたし、諡(おくりな)としても平安中期の村上帝以降は長く用いられず、それが復活したのは江戸も後期の光格天皇の時なのです。

 上皇に「光格天皇」とおくっただけなのに、人々はなぜ「天皇」号が出てびっくりしたのだろうか。その理由はふたつほどある。江戸時代、天皇のことを通常は「主上」「禁裏(裡)」などと称し、天皇という語は馴染みのない呼称だったことがひとつの理由である。また試みに、江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』の安政四(1857)年版を開いてみると、はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられている。初代神武天皇から第六十二代村上天皇までは「……天皇」と記されているが、第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院(光格天皇の先代)までは「……院」という院号で、第百二十代の光格天皇からまた「……天皇」となっている。すなわち、村上天皇(在位は天慶九(946)年〜康保四(967)年以来、五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していたのである。八百七十五年ものあいだ眠りこんでいた古代の遺物のような「天皇」号の復活だったから、人々がびっくりしたのである。
藤田覚『幕末の天皇講談社選書メチエ、p.130)


 天皇号が使われなかったことを以って「天皇はいなかった」とすることはできません。もちろん皇統を継ぐ方々はいらっしゃったわけです。しかしその存在が常に至高のものとされ、人々皆がそう認識していたかというとそれは言い過ぎでしょうし、少なくとも政治の中心ではなくなっていた期間が(建武の中興などのわずかな時期を除いて)数百年続いていたというのは確かです。
 院号ならばうちの祖父母も戒名にいただいております。江戸期には院号をいただく人が今より少なかったとはいえ、ただの院号でしたら普通の人と扱いが同じと言われても仕方がないでしょう。だからこそ光格帝は、天皇が日本国において「極尊」であり将軍家よりも上位の特別な権威であることを宣言するために「天皇」号を復活させたのです。
 上記書籍で藤田覚氏は、光格天皇を近代天皇制の嚆矢ともいえるところの存在ととらえ、神事や儀礼の再興、復古を通して朝権を強化した人物として描写します。(仁孝天皇を挟んで)この遺志を継いだ孝明天皇尊皇攘夷のエネルギーを結集し、それが次の明治天皇で制度としての近代天皇制を生むところへつながるという考え方です。


 なんと呼ぼうが薔薇の花は薔薇の花…ということも言えますが、天皇という号の復活は永らく忘れられていた「統治者としての天皇像」を蘇らせるために意図的に行われたことと見ることができますし、天皇のあり方が日本において常に一つの形であったというようなことは言えないのだと思います。そこのところは冷静に見る必要はあるでしょう。歴代天皇を「……天皇」と呼ぶようになったのは大正十四(1925)年に政府が決めた時からなのでして、まだそれは百年の伝統にもなっていないことなのです。

 光格天皇は、その生涯を閉じることによって古代天皇制を象徴する天皇号の復活を実現させた。古代天皇制にまつわる、そのシンボルともいうべきさまざまな儀式、神事、建物などを復古・再興させたその生涯の最後を飾るにふさわしい、見事な総しあげであった。大政委任論、天皇号による政治的秩序の頂点、権威の源泉としての地位、強烈な君主意識と皇統意識、儀式・神事・御所の復古再興により強化された神聖(性)と権威を次代に残した。幕府からも、またそれに反対する側からも依存されるにふさわしい権威を身に着けはじめ、それが孫にあたる孝明天皇への大きな遺産として引きつがれ、幕末政治史に重要な役割を果たしうるようになる。
(藤田、前掲書、pp.134-5)