帰属処理と切断操作?

 最近、少しずつ諸方で「帰属処理」と「切断操作」という概念の名前を聞くようになりました。社会学の概念ということで宮台真司の名前とともに語られたりしています。
 直近のこの言葉の流布は、opemuさん@opebloの「僕達も共犯ではなかったのか」(リンク)という話題となった記事が元ではないかと思いますが、この記事以前からも宮台氏絡みで聞くことはできた言葉だと認識しております。

僕が、この話を聞いて思い出すのは、宮台真司さんが言っていた帰属処理と切断操作の話だ。何か訳のわからない事件が起こり不安になった時に、「こいつ」「こいつら」が悪いんだと是が非でも何かのせいにするのが帰属処理で、この「こいつら」は普通の生活を送っている僕達とは違うんだと、自分とは無関係な地平に押し込めて安心するのが切断操作

結局は、宮台さんの言葉を借りれば、「どこの国でもメディアが帰属処理と切断操作を提供するのは変わらない」わけだから

この件に限らず、マスゴミと評するマスコミ批判というのはよくネットでも見かけるけど、それもまた、(短絡的にどこかの)「マスコミが悪いんだ」と帰属処理を行って、「ネット(=自分達)は違うんだ、ネットには真実があるんだ」と切断操作を行っているのではないかという様な気がしないでもない。帰属処理や切断操作の概念の使い方が間違っているかもしれないけど。
(上記記事より引用)

 私は術語としてのこれらの言葉を存じませんでしたので、opemuさんの用法が正しいのかどうかわかりませんでしたが、最近見かけるこの言葉はほぼここに引かれた意味で用いられているように思います。そして検索して、はてなダイアリーのキーワード「切断操作」の項で、「社会学の概念。共同体に特有な問題処理の作法」として、宮台真司の著書からの引用つきで説明がありました。

下記の引用は、宮台真司『これが答えだ』朝日文庫、92-3頁より。 ISBN:4022613777


「かつての未開な共同体では、疫病が起こったり不具が生まれたりすると、生け贄を捧げるなどの儀式をして、問題を「聖なる領域」に囲い込み、皆で安心するという操作がありました。僕たちの複雑な社会にも、実は似たような機能を持った操作があります。


例えば、訳がわからない事件が起こったときに、誰が悪いのか皆で考え、コイツが悪いんだって突き止めれば、カタルシス(感情浄化)が得られます。一般に、複雑な社会では、原因がわからないことが最も大きな不安要因になるので、是が非でも何かのせいにする。そういう操作を「帰属処理」と言います。


ところが、しばしば原因の帰属先として「異常なもの」が選ばれます。コイツは精神障害だとか、被差別民族出身だとか。「異形なるもの」を作り出し、そこに原因を帰属させれば、共同体を手つかずで温存できます。普通の生活を送っている自分たちから見ると全然違う人たちなんだという「異形」のカテゴリーに押し込めれば、問題が自分たちの共同体の「外側」にあることになり、自分たちの共同体は問題から隔離されるんですね。こういう操作を社会学では「切断操作」と言います。」

 何だかわかったようなわからないような説明です。宮台氏の上記説明では、これが「共同体の機能」として言われる概念のようにも思えます。だとすると、これをメディアなどの集団や個人の行為の説明に適用していいものかどうか疑問かもしれません。
 またこの説明はどこか集団心理学的であり、機能主義的でもあります。規範意識−価値判断も忍び込んでいて(ex.「是が非でも何かのせいにする」とか「異形のカテゴリーに押し込める」「自分たちの共同体を問題から隔離(する)」などの表現)、ニュートラルな分析とも思い難いです。


 何より「(何らかの事象の)原因の帰属先」を外部に求めるということ自体が正当である場合もあればごまかしである場合もあり、客観的に自分たちに関係ない問題というのもありますから、自分たちと異なるところに問題を置くという行為はそれだけでは善悪は問えないところにあるように私には思えました。厳密にどうこれらの術語が定義されているのか、それは知りたく思ったのです。


 ということで手っ取り早く「辞書・辞典」の類を引いて見ました。

 『全訂版 社会学用語辞典』鈴木幸壽他編、学文社、1992

 古いのでしょうか、該当項目がありません。

 『新しい世紀の 社会学中辞典』N・アバークロンビー/S・ヒル/B・S・ターナー編、ミネルヴァ書房、1996

 それほど広く知られている概念ではないのでしょうか。

 『社会学事典』見田宗介他編、弘文堂、1992、第4刷

 これはかなり大部の事典だったのですが。

 『社会学小辞典[増補版]』濱嶋朗他編、有斐閣、1994、増補版第16刷

 これはさすがにもとが古い本ですから。

 『新版 社会学小辞典』濱嶋朗他編、有斐閣、1999、新版第2刷


 ちょっと関係ありそうだったのは次の項目です。
 帰属理論 attribution theory
 自他の行動や事象の生起と結果について、その理由や原因をどこに求めるかが「帰属」である。この過程のどの面を取り上げ、どのような理論構成をするかによって、いろいろな帰属意識が成り立つ。試験の成績のわるさを自分の努力に求める(内的帰属)か、教え方のせいにする(外的帰属)か。また成績がよかった場合にはどうなるのか。このことは、一回だけの経験で起きるのかどうか。さらに詳しい理論構成がなされている。

 ここでは「帰属」概念はニュートラルですね。そしてそれは原因の切断の面だけではなく、内部に求めるという行為も含むものとなっています。

 『新社会学辞典』森田清美他編、有斐閣、1994

  • 帰属処理の項なし
  • 切断操作の項なし
  • 帰属意識(identification)という項あり
  • 帰属原理(ascription)という項あり


 ここでも次の項が関係あると思われました。
 帰属 attribution
 人が、自己や他者の行動を含むさまざまな事象に対して、その原因を推測する過程。さらにそれを通じて、環境内の人や事物が持つ固有の属性、傾性(desposition)に関する推論を行う過程。言い換えればこれは、社会的な事象や行動の意味を解釈する過程であり、社会的相互作用を媒介する認知過程として、きわめて重要な役割を果たす。(傍線引用者)

 こうして「帰属」の説明項目を見てみると、宮台氏の「帰属処理」の用法はかなり偏った(というか特徴的な)ものに思われます。もともとこれにネガティブな意味が属しているわけではなさそうです。宮台氏の用法は、氏独自か、あるいは研究者のどなたかに独特の用語の用法なのかもしれません。

 (「帰属」の項続き)
 人間の行動に対する帰属においてまず第一に問題になるのは、行動の原因が行為者内部の要因(態度、性格、能力など)にあるのか、外部の環境・状況の側の要因にあるのかという区別、すなわち内的帰属(internal attribution)―外的帰属(external attribuiton)の区別である。なかでも内的帰属は、その行動から行為者の内的属性を推測するための前提であり、行為者の招来の行動予測を可能にするという意味でも特に重要である…

 ここでもやはり「帰属」はニュートラルな概念ですし、「内的帰属」についての説明もはっきりありますね。
 この辞典は大部の二冊本ですが、上のような情報しか得られませんでした。宮台氏の用法は、ここでの「外的帰属」のネガティブな側面に絞って、「帰属処理」というタームを使われているように思われます。


 結局「帰属処理」や「切断操作」がどう定義されているのか、この概念が誰によって作られ用いられているのか、などに到達できませんでした。社会学に詳しい方で、これらの語について詳しい方がいらっしゃいましたらどうかご教示ください。
 私はとてもではありませんが、今の段階ではこれらのタームは使えないと思いました。


※07/04/16 aozora21さんの「上から目線、罵倒、責めについて 断片的に」トラックバック …もし何か参考になれば。