他者理解の構図2

 初めに「自己−自我」を立ててそこから「他者−他我」へ通じる道を考えた場合、それは行き止まりの構図しか描けないということを昨日書きました。孤独に陥った場合によく考える「誰も自分のことなんかわかってはくれない」という独白はまさにこの構図が支えるもので、こうして考えていけばある意味「わかり得ない」のは正しい理屈なのです。
 

 ともすればこういう構図を打開するために言葉というものに過剰に期待する場合がありますが、言葉が完全な意思疎通を保証してくれるものでないことは周知のことです。たとえば最近のHotWiredの「研究結果「メールの意図が正しく伝わる確率は5割」」という記事をご覧ください。あの図式を考えてみれば、むしろ五割でも意志が通じるというところに驚きがあってもいいくらいです。
 しかもこの記事の意思疎通の扱い方は、意志が通じたか通じなかったかの判断を「言葉」にすべて頼っているというところに危うさを持ちます。母語を同じくする人と直接会って言葉を交わし、その意が通じたと思っても結局通じていなかったという経験はいくらでもあります。言葉で誤解無き理解が可能ならば、争いごとがこれほど多い世界にはならないかもしれません。


 というように頭で考えれば決してうまくいかないはずの他者との意思疎通、理解なのですが、実はこうした思考はすべて現実には何故か乗り越えられています。思春期の子供のように「誰も分かり合えないんだ」なんて悲観して蹲っている人間はほとんどいません。私にしてからが、言葉では結局理解なんて無理だと信じるならばこうして書くこと自体が無駄です。つまり書いている時点で「意志の疎通は可能」という信憑を抱いているとも言えます。

   (自分の)思考 = (自分の)身体
                ‖ 
   (他者の)思考 ≠ (他者の)身体

 それではこの図式のどこがおかしかったのでしょう。


 まず第一に、完成して独在する「自己−自我」を出発点にしてしまっているところに問題があります。私たちは生まれながらに「自我」を持っているわけではありません。それは成長の過程で形成されるものであり、その過程には初めから「他者」が関わっています。
 第二にこの図式では、私たちに現れてくる「他者」は「人間」そのものなのであり、決して「精神」などではないということに対する理解がありません。最終目標を「思考(精神)」におくことで、このコミュニケーション図式は破綻せざるを得ないのです。


(続きます)