他者理解の構図3

 自分の「思考」を起点に他者の「思考」へたどり着こうとしても、それは決して明らかなものとして与えられることはない。ということを書いて参りました。他者の理解とは、その他者の思考を自分の思考の中で組み立てる(さらに言えばその真偽の認証はその他者につけてもらう)ということではないのです。そういう形で「他者」を理解する、言い換えれば「他者」を自分の中に取り込んでしまうことはもともと構図的に不可能であると…。


 にもかかわらず私たちは(他者を)「理解した」と思ったり、「理解して欲しい」と思ったり、当然その理解が可能だということを疑いません。これは、その相互理解への信憑が先に来ているからなのです。もしそれが「思い込み」であったとしても、それは私たちを作り上げてきた「基底的な思い込み」、それを疑うことなどできないレベルでの思い込みです。


 私たちは胎内からこの世界に出た時点で、自他未分、世界のすべてが自分であるような境位にいると言われています。観察者の視点で赤ちゃんを見ますと、その子が泣いたり笑ったり、おっぱいを飲んだり眠ったりしているようにしか捉えられませんが、赤ちゃんの視点では、世界のすべてが泣いたり笑ったり、そして眠ったりしているということですね。
 成長する過程でだんだんその世界の把握の形が変容し、自分というものができてきて、そして最終的に自我を持つ個になるのですが、その「自分」を作る過程では所与の「他者」がいるのです。むしろ「他者」を「他者」とわかってくる段階で「自分」が見えてくると言ったほうがよいかもしれません。自他はもともと未分なのです。そしてそこから現れてくる他者は、自分とまさに同じだけ理解できる存在であって、その他者が理解不能と判断される場合には自分を理解することもできないでしょう。

 私たちが他者を理解するのは、その他者がもともと自分の中にいなければ不可能なのである

 とはメルロ=ポンティの言葉ですが、相互理解の信憑が先行しているということも私は彼から学びました。


 「自分の思考」から始めて「他者の思考」へ至ろうとするあの構図は、後から作られた「自我」を出発点に、その「自我」から類推される「他我」へ向けて線を結ぼうとしたというところに誤りがあったわけです。
 私たちは他我からの認証を受けてその理解を確信するのではなく、むしろ最初に相互理解への確信を与えられ、時にその確信が揺らぐことによって後から「届き得ない他我」というものを自ら構成しているのです。


 そして

 私たちに現れてくる「他者」は「人間」そのものなのであり、決して「精神」などではない

 ということも忘れてはなりません。笑っている「他者」、泣いている「他者」、そういった姿が私たちにわかるのは、それが自分と同じ「人間」であると認識しているからなのです。


(続きます)