他者理解の構図4

 そもそも私たちにとっては「他者理解」よりも先に「他者(がいるという)確信」が先行しています。それは「共にある」という皮膚感覚であり、その他者が自らと同じ「考える自我」を持っているという確信なのです。それは決して「他者」のすべて、あるいは「他者」の思考を自分の思考の中で再構成する(つまり「他我」を自分の所有としてしまう)ような試みではありません。それは共存の感覚として捉えられます。


 共に同じ対象を見るとき、共に同じものを食すとき、共有する状況で共に笑い共に泣くとき、私と他者とは同じ世界に開かれています。共に同じものに向かってその前にいる私たちは、世界へのそれぞれの向き合い方が私と他者の境を越えて共有されていることをほとんど感覚的というしかないあり方で捉え、その時他者を「了解」するのです。
 この了解こそが自分にとっての「他者」の可能なすべてなのであり、たとえ「他者」が何を考えているか私にわかり得ないとしても、私はそこで他者を自分と同じ(あり方をする)存在だと確信するのです。


 自己投入とか感情移入などはこの確信の後にくるものです。その「投入・移入」は、自分の「世界に向き合っている態度」から導かれる思考を、ただその共存する他者に移すだけなのです。
 他なる自己としての他者の確信があればこそこの「投入」は行われますが、もとよりそれが正しいかどうかを担保するものなどありません。共に在り、共に世界に開かれているという「構え」が、この流れで「投入」なり「移入」をさせると言ってよいかもしれません。


 確実に私たちに受け取れるものは「他者の身体」まで、言い換えるなら「他者の行為」までなのです。私たちにとって、他者の思考に至るあの図式の「理想的な他者理解」などというものは要求できないものとしてあります。ですが、誰もそういうものは実現していないのですから、何もそれを悲観的に見る必要はないでしょう。


 少なくとも私たちは自分の真意が誰にもまったく伝わらない独我論的世界にはいません。意志疎通が可能であるという「確信」を持っています。しかし言語(母語)が変わったり、文化が異なって行けば行くほどある意味この確信は揺らいできます。
 実際のところ一つの社会の日常の生活においても、自分の真意が伝わらないことや誤解が生じることは度々でありましょう。にも拘わらず私たちがこの確信を持っていられるのは、その妥当性を常に文化−言語において検証し、確信を更新してゆくシステムがあるからではないかと私は考えてもおります。
(私たちの言語習得の構図からして、『私個人が言語構造を獲得する』というよりも『構造が私を獲得してゆく』といったようなものであり、それは非常に社会的な構図なのです)


 私たちは社会[文化−言語]から(つまりは他者の側から)「何か意味のようなもの」を与えられ、それを私的に解釈し、再び社会に投げ返し、その反応(即ち「行為」)によってまた「何か」を与えられるといったキャッチボールを繰り返しつつ「意味」を、そして「確信」を作り上げて行くのではないでしょうか。勿論これがすべてではなく、これは社会的な面に限ったモデルに過ぎませんが、このモデルは何故我々が「異文化(それも極端に異なるもの)」との出会いにおいて意志疎通の妥当性を問題にしなければならないのかを説明してくれるでしょう。


(続きます)