他者理解の構図5

 他者理解というものにおいて私たちにあるのは、もともと意志伝達の「事実」ではなくて「確信」だけであるとすると、いったいこの問題はどう表されるべきなのでしょう。ある種理想的な他者理解の絶対的困難性のゆえに、正当な他者理解というものは諦めねばならないのでしょうか? もちろんそうは考えられません。


 自己と他者の関係では、まず他者の行為こそが、私に「意味」を与えてくれるものだという点を忘れてはならないと考えます。それ以外のものは「意味」のレベルでは二次的なものです。またここでは文字・道具などの文化的サインも他者の行為に準ずるものと考えられます。
 そしてまた他者理解の根幹は、他者の行為の「意味」を我々がいかに「解釈」するかにかかっているということも。ここで「解釈」というのは、手持ちの意味の単に恣意的な当てはめなどでは決してありません。それは「意味」を共に作っていく作業であり、自己の変容なしにはいられない実存的行為です。
 「意味」は個人的(私的)な側でだけ生み出されるものではありません。また、それは社会的構造(他者の側)から一方的に決められ、与えられるのみのものでもありません。それは他者の行為と個人との間に生まれ、成長し、変化して行くものだと私は捉えています。そしてそこで生み出された「意味」は、社会的な側では構造の維持に働き、個人的な側ではその人の前にある世界を形づくるものとして働きます。人間にとって世界とはひとつの「意味」なのです。


 各個人の世界への向き合い方は固定的なものではありません。その成立が意味の成立とほぼ同時であるように、その変容もまた(意味が変わり得るものであるのと同様に)可能なものです。他者の行為の「解釈」は、そのような自らの世界への向き合い方を変容させて、その「他者」に近付くということであり、共に新たなる「意味」を創造してゆくという実存的作業なのであると考えられます。
 まさにこの意味で、「対話(dialogue)」というものが重要になります。「解釈」と言い「感情移入」と言っても、それが自己の変容と無関係な、他者の体験そのものを自分の内部で再構成するだけのものであったならば、それらは表面的であり恣意的のそしりを免れ得ないのですが、この「対話」は必然的かつ創造的なものなのです。