他者理解の構図(新たなモデル)

 「私」は独自の意味の世界、一定の地平を持ちます。この地平は私が他者の側(社会・文化)から多くを借りて作られてきたものとも言えますが、他者の側と私とで相互に組み立ててきたものだともいえます。特定の「他者」との間では、共有するその地平の範囲が重なっていればいるほど、たとえば母語や社会、時代などの共有部分が多いほど「世界への向き合い方」を同じくし、行動に説明がなくても何をしようとしているかは直観できます。またわからぬことがあっても、基盤が似ていればそれだけ言葉による説明もし易いでしょう。
 しかしまた同時に、個々の地平はその人個人のライフヒストリーによってつくられるものでもありますから、余人にはどうしても辿りつけない部分もあるでしょう。また同じ社会に同じ時代にいるといっても、その社会内部での自分のスタンスの取り方、関わる小集団、年齢、性別等さまざまなところで当然世界への向き合い方(反応・行動の仕方)は異なりますから、常にそれぞれの地平に差異はあると考えられます。


 他者を理解するとは、言ってみればその自分と異なる他者の地平の部分を自分の地平に融合させていく、相手の世界への対し方を学ぶ、つまりは自分の地平を広げることに他なりません。それを完璧に一致させることは無理にしても、対話によって各々が歩み寄り、お互いの地平を広げるというのが相互理解のモデルとしてあり得べきものと私は考えます。


 しかし往々にして知的に怠惰になる私たちは、自分の地平を動かすこと(それは自分の世界を揺るがすことでもあるわけですが)を厭い、単に自分の地平にすでにある代用品を以って他者を推し量り、自分の地平を少しも動かさずに他者を自分に取り込んだ=理解したつもりになったりします。ここの部分で手垢にまみれた概念=言葉の危険性があり、単なるラベリングをして「わかったつもり」になるという悪弊が顔を覗かせたりするのです。誠に以って耳が痛い話です>自分。


 もちろん自分を変えるほどの邂逅、劇的な出会いは日常においてそうしばしばあるものではありませんが、自分でも気付かぬほど緩やかに、たとえば親、兄弟、友人、知人、子供たち、読んだ書籍、文章…などなどのものから自分の地平が変えられることは誰も否定し得ないことだと思いますし、それもまた「対話」なのです。