チューリングテストと他者認識

 チューリングテストという言葉をお聞きになったことがある方は多いと思います。これはアラン・チューリングWiki)が提唱したある試験で、人工知能(Artificial Intelligence=AI)などが語られるときには必ず触れられるものです。
チューリングテストと中国語の部屋

 1950年に数学者チューリングチューリングテストという,知能があることに関する実験を提唱しました.それには,2台のディスプレイの前にテストをする人がいます.1台のディスプレイには隠れている別の人が,もう1台は人間をまねるように作られたコンピュータが受け答えした結果がそれぞれ出てきます.テストをする人はどんな質問をしてもよいとします.例えば,詩を作らせたり,音楽の感想を聞きます.また,コンピュータも人間をまねる努力をします.例えば,わざと計算に時間をかけたり,間違えたりします.こうして,テストをする人がどちらが人間でどちらがコンピュータか分からなければ,このコンピュータには知能があるとするのがチューリングテストです.

 様々なところで語られるチューリングテストも、このような問いの形式(コンピュータに知能・思考はあるかを問うもの)としての紹介ですが、私は上に引用した意義とやや異なる意義をチューリングテストに見ています。
 それは人間の他者認識の構造が、はからずもチューリングテストによって示されているのではないかということです。私たちにとっての「他者の精神」は、まさに一つのブラックボックスなのです。


 チューリングテストへの反論として上記サイトでも記されているジョン・サールWiki)の「中国語の部屋」というのは、次のようなものです。

 では,チューリングテストをパスすれば知能のある機械,すなわち,人工知能といえるでしょうか?これには有名な哲学者サールの『中国語の部屋』という反論があります.これは,英語しかわからない人が部屋にいます.その部屋には,中国語がわからなくても,中国語の文字を書いてあるとおりに置き換えると,中国語の受け答えができてしまう完璧な説明書があります.つまり,この部屋の人は,英語しか分かりませんが,中国語の質問に中国語で答えることができます.ということは,中国語の受け答えができるだけでは,中国語が分かるとは限らないことになります.同様に,まるで知能があるような受け答えができるかを調べるというチューリングテストに合格しても本当に知能があるかは分からないという反論です.

 これがチューリングへの反論となるのは、チューリングがこのテストによって「機械が思考する・知能を持つことを証明する」という目的を持っていた場合のみです。私にはチューリングが示したものは、これとはやや異なることなのではないかと思えます。
 知能があるかないか、あるいは「中国語がわかるか否か」、それがブラックボックスとしての他者において問われるとき、私たちはその反応(行動)以外のところで確かめるすべを持たないのです。


 数学者ジョン・キャスティ(John L. Casti)によって書かれた"The Cambridge Quinted"(こちら)という本があります。これは、チューリングの"Computing Machinery and Intelligence"というまさに最初にチューリングテストの概念を説明した論文を元に、実在の哲学者と科学者、文学者の対話として再構成した小説です(もとの論文の日本語訳(自由訳)を、福井県立大学の田中求之氏がこちらの「異本「計算する機械と知性について」」というサイトでなさっています。"The Cambridge Quinted"についての言及もあります)。
 この小説は数学者アラン・チューリング、作家であり物理学者のC・P・スノウ、遺伝学者J・B・S・ホールディン、物理学者エルヴィン・シュレージンガー、そして哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが1946年のある晩、人間と同様に思考できる機械をつくることができるかどうかについて議論を闘わせたという設定で書かれています(実際にはこの年にこのメンバー全員が集うことは不可能でしたが、この当時のヨーロッパを代表する知性の方々であったのは事実でしょう)。
 ここで最も頑強な「機械の思考」の反対者、ある種狂言回しとして描かれるのがヴィトゲンシュタインです。

 ヴィトゲンシュタインの立場
 機械が人間と同じように思考することはあり得ない。人間の思考の過程を機械が真似ることは不可能である。

 これに対して

 チューリングの立場
 思考の過程は問う必要がない。結果として理性的に応対がなされれば、それは思考しているとみなすことができる。その前提で、一定の様式で演算を遂行する機械(チューリング・マシン)でも思考していると考えることができる。

 という論争が続けられるわけですが、このチューリングの立場は、ここでヴィトゲンシュタインに振られている思考の図式をひっくり返すことに重要な意味があると私には思えました。


 小説のヴィトゲンシュタインにしても、「中国語の部屋」のサールにしても、また多くのAIを語る言葉にしても、それらはすべて「ある種の原思考」=「思考の実質」があって、そこから「知的な反応」が生み出されてくるという構図を無意識に採っていると思われます。つまり、人間と同様の思考過程こそが人間の反応を生み出すのであって、その模倣は機械にはできない(あるいはその模倣をこそAIは目指すべき)という考えなのです。
 しかしチューリングが提示する考え方は、これらの考え方の構図自体をひっくり返すものです。
 これは私たちに「他者の思考は実際にはわかり得ない」という着眼点で、私たちが実際に行っている他者理解は「他者の反応(行動)から得る情報のみにおいて為されている」ということを明らかにしている(意味している)のではないかと私は考えます(これは他者理解の構図として私がここ数日書いてきたことに沿うものだと私には思えます)。

 人間の審判者がある部屋にいる。A・B二つの部屋が、その部屋へテレタイプでつなげられている。
この二つの部屋の片方には人間が、もう片方にはコンピュータがあり、審判者と文書による会話が行
われる。理知的な会話がなされ、どちらの部屋に人間がいて、どちらがコンピュータか審判者に判断
できなかった場合、結果として「コンピュータが思考している」と結論づけることができる。

 このチューリングテストの在り方をもう一度よく見てください。もちろんテスト後のネタばらしがあれば、私たちには判断の真偽はつけられます。機械の「知性あるふり」を「誤解」したのかどうかについての真偽です。しかし実際には、私たちは他の人間に「知性があるのか」それとも「知性があるように見えているだけなのか」については、最後までネタばらしを与えられることはありません。
 上位の審判者がいないとすると、誰にもネタばらしはできないのです。ことの真偽が結局はわかり得ないのならば、それはあの「エーテル」と同じようにないことにした方がすっきりするはずです。
 私たちの他者の思考への確信は、チューリングが示したテストによって「真偽判断に至らない思い込み」であることがここであらわにされているのではないでしょうか?


 IBMのスーパーコンピュータDeep Blueが人間のチェスの世界チャンピオン、カスパロフを破ったあの「出来事」を思い起こしてみてください。Deep Blueは単純に力技でその局面以降のすべての可能な局面を出し、そのおよそ13手先の局面の評価から次の一手を選ぶという、全く人間の思考様式とは異なる手法でチェスを行なっていました。
 しかしこれは結果としてみれば、コンピュータの「思考」がチェスというゲームで人間の思考に勝ったと言えるのではないでしょうか。私には原理的に全くチューリングテストと相同な事例であるように見えます。
 Deep Blueの思考ルーチンや内部構成をたまたま私たちは知る立場にいます。だからこそそれは「紛い物」に見えるのです。でももしカスパロフが、対局相手をコンピュータと知らされない状況でチェスをしていたとしたら、彼は自分に勝ったものが「思考」していないなどと信じることはできなかったでしょう…。


 というようにいささか我田引水のきらいはありますが、私が描いてきた構図、すなわち他者理解において他者の思考に人は届くことはできず、そこにあるのは他者が自分と同じように思考しているという確信だけなのだという構図が、チューリングテストによっても明らかにされていると、少なくとも私にはそう思えるのです(笑)