射水市立病院問題

 富山県射水市の市民病院で、人工呼吸器を外すことにより五年間に七人の末期患者が死亡した件ですが、これは倫理上の問題でもあるでしょうが、それ以上にまず刑法上の殺人にあたるかどうかが問われる事件でありましょう。
 富山の延命停止、院長「倫理上問題」(読売新聞ニュース)
 つまりこれは患者側から見た「尊厳死」の事例ではなく、その患者に対する「慈悲殺」(mercy killing)の事例だと思うのです。
 尊厳死疑惑:殺人容疑も視野、慎重に捜査 富山県警毎日新聞ニュース)
 その意味でこの「尊厳死疑惑」という言葉には強い違和感を感じます。


 「安楽死」(euthanasia)という言葉は、ギリシア語のeu (良い) とthanatos (死)を組み合わせた語です*1。この語が用いられる以前、伝統的に欧米では「慈悲殺」(mercy killing)という言葉で苦しむ病者・負傷者の死に対する対応が問われてきました。
 これが苦痛からの解放を求める「患者側」の視点で考えられるようになったとき(それはある意味医師・処置者の責任を曖昧化することにつながったと感じますが)「安楽死」という言葉にとって変わられ、さらに「死ぬ権利」(right to die)という考え方が出てきて、患者の側の価値観を中心とした安楽死観念「尊厳死」(death with dignity)が言われるようになったという経緯があります。
 また「安楽死」という概念は広義に、慈悲殺や自殺幇助的な「作為としての積極的安楽死」と治療停止など死の容認(allowing to die)による「不作為としての消極的安楽死」の双方を含みます。そしていわゆる植物状態の患者などに対しての延命治療の停止などは「尊厳死」と呼びならわされるようにもなっていて、「慈悲殺」・「安楽死」・「尊厳死」のそれぞれの概念は内包するものがはっきり切り分けられる関係にはないのです。


 従って今朝の産経の社説「【主張】延命中止措置 早急に指針づくりをせよ」での安楽死の説明には不満が残るところです。(ワイドショー的ニュースに引かれていましたが…)
 結局誰の視点か、誰の責任行為か、その行為にどういう意味を取るかによって言葉が(ある意味都合よく)使い分けられていると言ってよいでしょう。現時点では「尊厳死」という言葉がもっとも患者本人に寄り添った言葉とされていると思いますのでおそらく無意識に射水市民病院側はこの言葉を用いたものでしょうが、「事前の意思表明」(living will)も無く、患者本人が「対応能力を持つ」(competent)者ではありませんでしたので、私はこのケースに「尊厳死」という言い方を使うのは誤りだと考えます。今の判断ではこれは「慈悲殺」の問題に見えてなりません。

消極的安楽死

 今回のケース、人工呼吸器を外すという処置は治療停止とみなされますからいわゆる「消極的安楽死」(passive euthanasia)の範疇として語られるでしょう。医療従事者の側からは、「積極的安楽死」(active euthanasia)は避けるべきとの声が多く聞かれるのと同時に、この「消極的安楽死」は許容すべきではないかという議論が盛んなのは事実でした。有名な1973年の米国医師会の声明(AMA's 1973 policy on euthanasia)でも、「一人の人間の生命を他人が意図的に終わらせることは医療者としての立場と米国医師会の方針に反する」としながら、「特別の手段による処置を控える」という"正当な不作為"というものは存在し、生物学的死が切迫している「反駁できぬ証拠」があるケースに対しては、道徳的にも法的にも是認されるとの了解が述べられています。


 しかしこの消極的/積極的と安楽死を切り分けて、前者を認めるべきという議論については賛否両論があるところです。反対論の代表としてはJ・レイチェルスの議論があります。

 治療停止も歴然とした作為であり、患者を意図的に死なせる行為の一つである。なぜなら、殺人=積極的安楽死と死の容認=消極的安楽死との概念上の区別は不可能であるからである。従って、道徳的妥当性に関しては患者の生命を直接終わらせる行為も状況次第では正当である。
 治療停止の後、死に至るまでの長引く苦痛を患者に負わせる場合においても、消極的安楽死の方が望ましいと主張することは、患者の苦しみを少なくするより、むしろさらに増すような選択を支持することになり、当初の決定を促した人道主義的な衝動(humanitarian impulse)と相容れない。
(レイチェルス「積極的安楽死と消極的安楽死」、『バイオエシックスの基礎』、加藤尚武、飯田亘之編、東海大学出版会、1968、所収)

 こちら⇒Rachels's argument against AMA's policy on euthanasia でも論点が整理されています。
(※ レイチェルスはむしろ積極的安楽死を推進すべきとの立場です)


 これに対する反論もなされています

(トム・L・ビーチャム「レイチェルスの安楽死論に応えて」、前掲書所収)

 積極的安楽死と消極的安楽死の区別は重要である。たとえ積極的安楽死が患者に(処置停止で放置するより)より少ない苦痛しか与えないケースが考えられるにしても、それを正当化することは紛れもなく有害な結果を生じてしまう。
 一度、自発的安楽死を認めると次には不本意の(involuntary)安楽死も許すことになり、やがては社会の負担になると判断された者(精神遅滞者・犯罪常習者・欠損新生児など)に拡大するだろう。そして人命の尊重を教える原則もこの過程でだんだん腐食し、ついには廃棄されることになろう。
 社会的効用の軽重を考える規則功利主義において検討すると、積極的安楽死を許す規則を採用した場合、当の患者をめぐる利益(本人の欲求の充足、入院治療費の軽減など)から、そこに若干の効用価値は認められる。しかし同時に社会が所有している全体の道徳コードを考えた場合、積極的安楽死規則が付け加わることでコードの規制力は弱まり、その結果の弊害(腐食)が効用を上回る


 いったん殺人を認めると以後、正当化される殺人と正当化されない殺人との間に揺るぎ無い境界線が引けなくなる。線を引き直せば際限がなくなる。ナチスは当初、非ユダヤ系ドイツ人の重病人に対する安楽死を善意から認めた。以後それがだんだんと「国民の敵」へと拡大されてしまった


 少なくとも倫理的議論としては、この問題に決着はついておりません。生命倫理の問題は、自分がどのような立ち位置にいて、どのように考えるかという選択を一人一人に促すものなのです。

*1:Euthanasia is commonly defined as the act of bringing about the death of a hopelessly ill and suffering person in a relatively quick and painless way for reasons of mercy.