「心の問題」の履き違え

社説:靖国参拝 あいまいな解決法はない

今回の総裁選で相違点が一番はっきりしているのが、争点にしないはずの靖国神社参拝である。

 靖国参拝は、本質的には特攻隊に感動した小泉純一郎首相個人の「心の問題」だった。だが、「心の問題」であるが故に、中国人、韓国人の心を刺激した。それが日本人の心を逆なでした。情報化時代の恐ろしさである。(後略)


毎日新聞 2006年9月10日 社説冒頭)

 ちょっと信じられないくらいなのですが、毎日新聞は社説で(小泉氏も言っていた)「心の問題」という言葉の意味をまるで理解できていなかったことを表明しています。


 靖国問題を「心の問題」とする本義は、靖国参拝という行為を「思想・信条の自由」という憲法で保障された「内面の自由」として捉えるということです。これは前々からそうですし、少なくとも小泉氏の終戦の日のインタビューを聞いた人がそれを誤解しようはずもないと思っていました。


 もちろんそう問題を捉えることに異論がある方はおられましたし、それを頭から否定するわけではありません。確かに靖国問題には「外交問題」としての側面、「内政問題」としての側面、そして「内面の(=心の)自由の問題」としての側面があるとは思います。 ただ私自身は、今般の靖国問題においてこの中で最も重視すべきは「内面の自由の保障」という点だと認識していて、その意味で小泉氏の「心の問題」という言葉を支持しているわけです。


 はっきり申しまして小泉純一郎首相個人が「特攻隊に感動した」などということは全く本質ではありません。それを持ち出すのはこの社説子が靖国問題をほとんど理解できていなかったということにしか見えません。「心の問題」とは、他者の内面の自由に立ち入るなというある意味外形的な不干渉の原則を言っているだけなのですから。


 また、心の問題だから「中国人、韓国人の心を刺激した」(だからそれは避けるべきだった)という言い方を靖国問題において許すのは、私には「お前はオレの心を傷つけた」(だから補償しろ)というような強請りに正当性を与えるものとしか思えません。ましてこれが避けられるべきものだとしたら、彼らもまた「日本人の心を逆なで」したことに対して重大な責任があるという話にもなりましょう。(どちらが先に傷つけた云々ということをここで言うなら、それは小学生のケンカです)
 これを「心の問題」とするのは、互いに内面に立ち入ること、詮索しあうことはやめて、それに触れないことで尊重しあいましょうということに他ならないのです。そして、そこには「情報化社会」などというものも全然関係しておりません。この言葉を書くことによって、社説子が問題を的確に捉えていないことは一層明らかになっています。


 この冒頭でこれだけの勘違い、履き違えをしている以上、この後の社説の部分にまともな結論を導く説得力があろうはずがありません。それにしてもかなりひどい認識不足で、こういう発言が無署名で、しかも毎日新聞を代表する意見として堂々と書かれているということは、新聞の役割もそろそろ終わりかなと思わせるに十分な事例ではないかと見えてしまいました。