なぜ信仰があるのか

 宗教が人に与えるものは一体何か、などと大上段に構えても、私自身きっちりどこかの信仰を持つわけではありませんのでおおよそ曖昧な話になりますがちょっとだけ思うところを。


 何かの事故で腕を片方無くしてしまった人がいるとして、その失った腕をもう一度生やしてくれるのが宗教の奇跡だとは私は考えません。宗教の奇跡があるのならば、それはその人が腕を失ったことを自分の生の意味の中に位置づけ直して、もう一度前向きに暮していこうと考えさせてくれるようなところにあるのではないかと思っています。
 人生は不条理なものです。それは時には耐え難い苦しみとして人にのしかかってきます。そういう時に、その苦しみにさえ意味を与えてくれて、再び生きなおさせてくれるということが宗教の果たしてきた一つの大きな意味・役割だったと理解しています。


 諸宗教の象徴的な儀礼、また今となっては奇抜な奇跡譚などのかなりのものがこうした救いの構図を示しているように見えます。教義・神学的なものは確かにそれぞれですが、具体的な信仰(というか信心)の場面では大づかみにこういう共通項があるのではないでしょうか。
 たまたま昨日読ませていただいたaozoraさんのTritsch-Tratschの記事「■信仰は心の中に?」にあった次の一節も、そういうことを示唆してくれるもののような気がします。

 …彼女は田中信生氏の大ファンでもあり敬虔なクリスチャンです。知り合った15年前、夫のこと、嫁ぎ先との関係、複雑な家庭環境、育児のこと、近隣との関係、様々な悩みを抱えていました。どん底の状態から救い出したのは信仰との出会いだったようです。その変容を間近で見ている私は神様の力を信じています。彼女と彼女の信仰が信用できるのは教会の催しに誘ってくれても献金は強要しないし、仏壇や本を売りつけないせいでもありますが(笑


 それが回心と言えるような劇的なものならば類例はそれほど多くないのかもしれませんが、つらい時苦しい時の共苦共感のような慰謝のレベルまで含めますと、この宗教的奇跡は一般的で多いものでしょう。荒唐無稽に見える奇跡譚があるからと言って宗教関係全否定というのもあまりに短絡的でもったいない話です。


 もちろん諸宗教の役割はこれに留まるわけでもありませんし、これだけに還元できるならばその機能の「代替物」、たとえば心理カウンセリング等々があれば宗教は用済みとかになってしまいます。そういうことが言いたいわけではありません。
 この世の中にある大抵のものは功罪の両面を持っています。宗教にもそれがあり、そしてその「功」の部分ももう少し考えてみるべきではないかなとそう思った次第です。