原則倫理と状況倫理 

ホームズ事件
 1841年、ニューファウンドランド沖でウィリアム・ブラウン号という船が遭難した。避難する乗客及び乗組員は、
数少ない救命ボートに殺到。ボートは恐慌状態に陥っており、定員過剰で救命ボートの転覆の危険性があった。
「女性と子供優先」という平時の倫理格率は全く機能せず、男性乗客は誰一人ボートを離れようとしなかった。
そして一部乗組員により、数名の男性乗客が海上に投棄された。多くの乗客は助かったものの、その人間の海上
投棄の違法性をめぐって裁判が行われた。
 結局乗客を投棄した船員Holmesに6ヶ月の禁固と20ドルの罰金が言い渡されたが、その判決では次のようなことが
語られた。残りの乗客の生命を救うために何人かを海上に投棄しなければならないとしたら、乗客の中から籤に
よって犠牲者を選ぶべきであった。結果として人間ではなく、運命によってなされた選択に類似しているという点に
おいて、籤が唯一の受け入れることのできる手続きである。
 United States v. Holmes, U.S.Circuit Court, 1842
 平等感情と正義―QALYsに基づく医療資源配分―

 この判決に対し法律学エドモンド・カーンは、生死の決定を籤に委ねることに強硬に反論を加えました。こうした重大事を賭や偶然に委ねるべきではないし、殺人という手段を用いた場合、生存者の誰一人も無傷のままに生き残ることはできないと言うのです(それが「無加害の原則 principle of nonmaleficence〜無実の者に害を与えてはならない」に反するためです)。
 また同時にカーンは、何か重要な人を残すといったような功績主義的選抜も否定します。緊急避難的状況では、全ての人間が財産、家族関係、社会的地位などの道徳的個性を主張する権利を失い、同じ種の一員と化してしまいます。そこにいるのは道徳的個性を備えた人格ではなく、もはや人類の一員にすぎないのですから、誰も他人を差し置いて自己自身を救うことはできない、と考えるからのです。
 そしてそこで提示されるのが、彼の言う終末のモラルです。要するに、すべてか無か、全員の生存が望めないのなら、全員死ぬべきだとするのがその内容なのです。「もし他人の命を救うために、自らの自由意思で自己を犠牲にする者がいない場合には、全員が救助を待ち続け、ともに死を迎えるべきである」。(cf. 今井道夫、香川知晶『バイオエシックス入門』東信堂


 倫理学説では、原則倫理と状況倫理という枠組みで考えるときがあります。
 原則倫理では、何よりも自らの信じる倫理原則に従うことが重要であって、そのために結果が思わしくなかったとしても仕方のないこととされます。カーンの主張もこれに属するでしょう。それは厳格な義務論(deontology)に通じます。もちろん義務論というのも原則倫理であって、哲学者ではカント(I. Kant)などがこの立場です。
 これに対する状況倫理では原則ではなく状況が行為の善悪を決定すると考えます。そのため、結果が良ければその行為は善とされます。結果主義(consequentialism)はこちらのカテゴリーに入る考え方です。さらにその結果の善し悪しは、もたらされる功利(utility)の大小によって決まるとされ、これは功利主義に通じる倫理学説だと言えましょう。哲学者ではベンサム(J. Bentham)やミル(J. S. Mill)等がこちらの側に入ります。


 状況倫理の立場からのカーン批判は概ね次のようなものです。救命ボートの状況においてさえ、「すべてか無か」という終末のモラルは理性的ではないと考えられる。何人かの乗客の生存の可能性が残されているにもかかわらず、乗客全員が従容として死を待たなければならないという選択は合理的であることを拒否する行為だ。このような極限状況でも通常選択されてきたのはより合理的な解決方法であり、「ある者を救うために他の者を殺してもよい」という正義の原理 principle of justiceの優位がそこで考えられなければならない。
 たとえばそれが有害だからという理由からではなく、すべての人がその恩恵に浴することができないという理由で個々の医師に医療サービスを禁止するというシステムは明らかに不都合なものでしょう。極論を排するという立場からは、私もこちら側に共感します。

 海で溺れていた人が30人いたとする。そこへ救命ボートがやってくる。船長は次々と救助して
29人を乗せた。その29人は老若男女さまざまな人たちである。そして最後の一人(若い男性)を
乗せようとした時にボートは沈みかけた。そこであわててその人を降ろしたが、良心はひどく咎めた。
船長はこの場合どうすべきだろう。

 この抽象化された極限状況の設定に対して、立場の違いは次のような異なる解決を帰結します。
・原則倫理で生命の平等に立脚する立場:
 30人を助けるために1人を見殺しにすることはできない。死ぬのなら全員で。
・状況倫理または結果主義で結果の功利性に立脚する立場:
 30人が助かるなら、1人が犠牲になっても仕方がない。
・生命の平等および結果の功利性をともに重視する折衷的態度:
 何とか全員(30人と船長)が助かる方法はないか。
・その他の立場:
 たとえば船長の犠牲によって30人を助けるべし、というものなど。
(※そういえばかわぐちかいじの『沈黙の艦隊』で、こういう極限ボート問答があったはず… ↑上に追記)
 このモデルケースでは私の考えは折衷的態度に近くなると思いますが、これ実は解決になっていないのですね。
 先日来の倫理的問題の数々には、絶対と言える解答などないのだろうと思います。ただ、そこで自分ならどうするかと考えてみることで、何か生き方にちょっとでも変わるところがあればと願うだけです。

いくつかの他の難問


第二次世界大戦中、北アフリカに進軍したアメリカ軍司令官は、戦闘で負傷した重病患者の治療を放置して、希少なペニシリンを梅毒に感染した兵士の治療に優先的に使用するよう指令した。その方が軍隊の戦闘能力の維持に役立つからである。こうした患者選抜は適当であったのか。


・世界中で貧しく食べられない人がいるうちは、贅沢をするのは適当ではないとつつましい生活態度をとる人がいるとする。世界中で不幸な人がいるうちは自分は幸福にはならないという態度は、どう評価されるか。