加害者の慰霊

 G★RDIASの記事、「「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報」についてです。
 これは「バージニア工科大学事件の追悼がキャンパスで行なわれているが、キャンパスに置かれた犠牲者追悼のための「石」に、33個目の石、つまり容疑者のチョ・スンヒのためのものが追加されたとのことである。」という話題が書かれたもので、このエントリーをご投稿のkanjinaiさんは「私は米国社会一般がすばらしいなどという話はしていない。「33個目の石」みたいなことは、おそらく日本では起きえないだろうという暗い予測を述べている。」とされています。


 日本では…というようにまず私は思いませんでしたが、伺ってから沖縄の「平和の礎(いしじ)」はそうかなと思いました。そしてここに寄せられた匿名さんのコメントなどから、考えを「靖国神社」問題にめぐらせました。匿名さんのコメントはこういうものです。

匿名 『こんにちは。
確かに33個目の石は日本では考えにくいですね。
靖国問題が話題になったときには一部で「死ねば水に流すのが日本文化」「死ねば神様仏様」というふうに言われていました(中国の「死者に鞭打つ」文化も日本のネガとして、ことさらに取り上げられました)。
日本の文化がどのようにこうした事件を扱うのか(あるいは、事件の扱いが日本文化に根ざしたものになるのか)、真面目に考えてみたくなりました。』 (2007/04/22 15:52)

 いわゆる靖国神社問題は、「被害者」側の国から「加害者」側の国に「加害者と名指しされた者の追悼」に(日本が国として)関わるなという*1告発ではなかったでしょうか?
 そして日本側でも「戦犯は加害者の最たる者だから分祀せよ」とかいう声すらあったのではなかったでしょうか?


 靖国問題A級戦犯の合祀に問題ありとされていた方々は、被害者感情を考えるとこの33個目の石は置くべきではないとおっしゃるのか、それともこのケースでは被害者に近い方の配慮だから問題がないと捉えられるのか、そこらへんがとても気になるところです。
 また、kanjinaiさんがどうして「おそらく日本では起きえないだろう」とおっしゃるのか、コメントの匿名さんがなぜ「確かに33個目の石は日本では考えにくいですね」とおっしゃるのか、その背景にどのようなお考えがあるのかにも興味があります。
 たとえば「村八分」にされていた者も「葬儀」(と火事)については仲間はずれを免れていました。死後の霊威をよその国よりも恐れたのが日本です。加害者だからといって慰霊を怠れば、それはタタリ神となって害をなすかもしれないという認識が強くあったはず。私にはむしろ「加害者」だから慰霊しないという構図は日本には少ないのではないかと思えるのですが…。

*1:勘違い気味の