高砂慰霊碑の件

 上記エントリーに関わって、ここで日本軍に協力した台湾の高砂族の慰霊に関する一つの事例を書きとめておきます。
 1985年以降、日台両国の戦友会や遺族の努力が始まり、1990年に台中市の宝覚禅寺に李登輝氏(当時中華民国総統)の揮毫した「霊安故郷」という文字の入った慰霊碑が完成します。そしてそれに続いて、タイヤル族が住む台北県烏来郷にも、元第一回高砂義勇隊の戦争生還者およびその遺族によって、原住民族の高砂義勇隊のための慰霊施設が建立されました。(ここにも李登輝氏の揮毫した碑が建てられます)
 ところが2004年にこの高砂義勇隊慰霊碑を管理する会社が倒産し売却されたため、慰霊碑の移設が不可避という事態になりました。日本の新聞で募金が募られ、三ヶ月で3398人からの寄付が寄せられ、移設が可能になったのです。ところがここから妙な状況が現出します…。
 以下は、国際宗教研究所編『現代宗教2006 特集:慰霊と追悼』東京堂出版、に所収の台湾中央研究院民族学研究所助手、黄智慧氏による「「戦後」台湾における慰霊と追悼の課題―日本との関連について」からの引用です。

 …この日台双方の交流は、主に戦時中、勇敢さを誇った高砂義勇隊の隊員が、数多くの日本の戦友を救ったことによる。その恩返しとして日本の民間を通じて寄付があったわけで、人間本来のヒューマニティーの表れであり、日本と台湾原住民族の未来へ開かれた平和な交流の土台となるはずであった。
 移設式の日の前後には台湾地元各紙が喜ばしいこととして穏やかに報道していた。ところが移設式の10日後、原住民選出の某国会議員およびある新聞が突然批判を始めた。烏来が日本に「占領」された、とその新聞は第一面のトップで大きく報じたのである。そこでは、あたかも六十年前の日中戦争時に戻ったように「占領」や当時日本に味方する人へ罵声を浴びせた時につかわれた「走狗」という言葉が再び使われ、紙面に批判的心情が滲み出ていた。それと連動して時を置かずに、鳥来の公園の管理者である台北県政府が県長の指示の下、二月二四日に「霊安故郷」の慰霊碑主碑を無残にもベニヤ板で覆い、横にあるその他の慰霊碑をほぼ全面的に撤去するに至った。無論、台湾のほかの新聞やマスコミにおいては歴史学者や人権団体、タイヤル族民族議会、様々な世論が、台北県政府の行動を批判し慰霊碑の存続を呼びかけ、現在は法的手段による解決を図っている。いずれにしても国民党より選出され、また外省人の出自をもつ台北県長の発言や慰霊碑の撤去を求めた国会議員の発言からは、日中戦争および原住民への征服戦争により残った怨みが鮮明に感じられる。

 こうした経緯に関しましては、現在の国際関係、国際政治というものも色濃く影響をしていると考えられますが、単純に「被害者感情」とそれにどう対応すべきかという観点から、今回の33個目の石のケースにつながるような問題を孕んでいると私は考えます。