仏教は哲学じゃなくてもいいんです。エライ人にはそれが(以下略)

 聖天説話
 かつて摩羅醯羅列王という魔物がいた。この魔物は牛肉と大根を食い、牛がいなくなれば死人の肉を食い、その肉もなくなれば生贄の人の肉を食らっていた。困った人々はこれを討伐しようとしたが、摩羅醯羅列王は毘那夜迦と変じて天の彼方に眷属とともに飛び立ってしまった。さらに国土は毘那夜迦の呪いで疫病に襲われてしまう。悩んだ人々は十一面観世音菩薩に救いをこいねがった。
 十一面観世音菩薩はその祈りにこたえ、女身の毘那夜迦に変じて鬼王毘那夜迦のもとへ向かう。毘那夜迦はその変化身に心を奪われ、強く結ばれることを望んだ。それに対して十一面観世音菩薩は、自分と結ばれたいのならば、人々を苦しめるのを止め仏教に帰依して護法神となるよう要求した。
 毘那夜迦はその言葉に従って仏教に帰依し、人々を護る神となった。これが聖天さまである。

 歓喜天だけでなく、鬼子母神不動明王、あるいは大元帥明王など仏教には庶民に広く尊信を受ける神々が多くおられます。ここで名前を挙げた神々は、すべて「かつて悪の権化であり、今善神にたちかえった異形の神仏」です。これら信仰の痕跡は広くアジアの各地に残り、仏教の布教・流布段階で重要な役割を果たしたのではないかと推測されています。

 鬼子母神説話
 その昔、王舎城の夜叉神の娘に訶梨帝母とよばれる鬼女がいた。訶梨帝母は千人もいる我が子らのために他人の子を取って来て食わせていたので、近隣の人々に恐れ憎まれていた。
 お釈迦様はその罪業から訶梨帝母を救うことを考えられ、その末の一子を隠してしまわれた。これに身も世もあらず嘆き悲しんだ訶梨帝母に対しお釈迦様は言った。
「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」
 この言葉に訶梨帝母今までの非を悟り、仏教に帰依して人々の守護神となることを誓った。これが鬼子母神である。

 たとえば自分や自分の子が愛しいことは知っても、他人や他人の子が愛しいことを解さないのが人の世の性なのでしょう。それゆえ時に利己的で惨いこともしてしまいます。そんな普通の人々、己の悪・卑小さというものを自覚しつつそれでも救われたいと願う民衆によって、広く信仰されたのがこうした神々なのではないかと思います。
 仏教の叡智と内観を坐禅によって求めるような途は民衆にとってあまりにも遠いものです。でも悪を転じて善と為すような仏の大慈悲の(典型的なとも言えますが)こうした説話は、無残な己でも救い取られる希望となり得るのです。
 もし仏教が教義的側面、哲学的側面だけのものであるならば、それは世界宗教と言われるほど広まらなかったでしょうし、多くの人々の心のよすがとなることもなかったはずです。