「若者のナショナリズム」(大澤真幸)について

 先日、朝方の地震に目を覚まし、地震情報をとつけたテレビでいきなり大澤真幸氏の『視点・論点 若者のナショナリズム』という論説番組(NHK)を目にしました。この番組で語られた全文は以下のところにあります。


 視点・論点 「シリーズ戦後 『若者のナショナリズム』」


 90年代中盤以降から語られるようになった(日本の)若者の右傾化やナショナリズムの傾向は独特なスタイルのナショナリズムであり、古典的なそれとは違う新しい段階だというのがこの論説の大意ですが、寝ぼけまなこで聞いたその時から非常に違和感があり、全文を見つけて再読してもこの感が消えませんでしたので、いくつか思ったところを書いてみます。


 まずもっともひっかかったのが、結論ありきのお話ではないかということです。そして次に宗教に関して勘違いをしているのではないかということ。概ねこの二つが納得いかなかったところでした。


 短い話ですので仕方の無い面はありますが、若者の右傾化やナショナリズムがある(存在する)ということについては
香山リカ氏が「ぷちナショナリズム」と呼んだ現象(日本を屈託なく応援する若者)
小林よしのり氏のマンガ『戦争論』の大ヒット(歴史教科書問題と深く関係)
・ネットでのいわゆる左翼バッシング等
 が根拠として述べられつつ、これらの現象が「社会調査によって実証」されないということが言われます。

「日本への自信の大きさ」をナショナリズムの度合いと見なしますと、このデータは、近年、ナショナリズムが強化されている、とりわけ若者たちの間で、という先の印象をまったく否定しているように見えます。

 そしてその次に来るのは「この矛盾をどう考えたらよいのでしょう」という言葉でして、その後一切「若者の右傾化やナショナリズムの存在」自体については採り上げられません。寝ぼけて聞いていたときには何か聞き逃してしまったかとも思えたのですが、文字を見ても同じでした。
 上の「根拠」だけで「若者のナショナリズム」が「独特なスタイル」で存在すると考えるのはちょっと舌足らずです。むしろそれが従来のナショナリズムと違うものだとしたら、ナショナリズム以外のものがそこにあるのではないかと考えるほうが自然です。これがまず結論ありきのお話ではないかと思った由縁でした。


 次に宗教に関する言明なのですが、この話で大澤氏は窪塚洋介さんを新しい形のナショナリストとして捉え、そのナショナリズムが「多文化主義」の中から現れたことについて考察する過程で「宗教」というものを持ち出してきます。

 窪塚洋介さんの場合、さまざまな文化や生活様式を、「多文化主義」的に相対化するような視点を経由することで、ナショナリズムへと向かっています。
とすれば、私たちとしては、多文化主義的な普遍性がナショナリズムへとどうして転換していくのかを考えてみることで、今日のナショナリズムの特徴が理解できるのではないでしょうか。

 氏は、今日のナショナリズムは「アイロニカルな没入」であるという結論を置きます。その「皮肉な意識をもって、冷ややかな距離を取っているのに、他方では、つまり客観的な行動の面で見れば、没入している、はまっているに等しい」没入というものの説明のために、ここで多文化主義の中での宗教の在り方という例示をしているのです。

 多文化主義は、多様な文化やライフスタイルの寛容なる共存を謳う思想で、現在の左翼的な政治思想の中心です。まず、なぜ、多文化主義が、「多様な文化や信仰が深刻な葛藤を起こすことなく、平和に共存できる」、と素朴に前提にしているのか、を考えてみてください。
 ここで、信仰が、プライヴェートな・私的な趣味のようなものと見なされているのです。
 趣味であれば、いくらでも多様なものが共存できます。


 しかし、考えてみてください。
 趣味としての信仰というのは、信じていないということではないでしょうか。
 何かを信仰するということは、それを真理と見なすことだからです。
 しかし、真理への信仰は、多文化主義の観点からは許容できません。
 真理は、本来唯一のものであり、他のアイデアを排除するからです。多文化主義が許容できるのは、だから趣味としての信仰です。

 ここでの「宗教」の捉え方、これはイデオロギーとしての側面での宗教理解であると思います。しかしこの面だけで宗教が説明できる、あるいは宗教のこの側面だけを用いて他の事象の説明ができるとは私には思えません。
 確かに真理どうしがぶつかり合うという宗教的場面は数多くある(あった)でしょう。それは数多くの戦争も引き起こしたと認識しています。しかし宗教=イデオロギーではないのです。
 たとえば宗教にはコスモロジカルな側面もあります。イデオロギッシュな側面だけを考えるのであれば「宗教的寛容」は空論になりますし、シンクレティック(混淆的)な宗教の存在は説明不可能なものとなるでしょう。
 趣味として宗教を捉えなければそれは併存できないというのはあまりの極論ですし、日本の宗教事情を想起するというよりも一神教的なモデルで考えてしまっているからこういう妙な言い方がでてくるのだと思います。


 それに何より、ここで氏がおっしゃる「アイロニカルな没入」という概念が(「宗教」という例示を出しても)私にはうまく伝わってきません。

 真理は、本来唯一のものであり、他のアイデアを排除するからです。多文化主義が許容できるのは、だから趣味としての信仰です。
 もう少していねいに言えば、「本気になって信じてはいけないが、信じているふりをすることならかまわない」ということです。


 しかし、ここにはさらなる転換が待ち受けています。
 たとえば、私は神を信じてはいませんが、教会では礼儀正しく礼拝につきあい、信じているふりをいたします。なぜでしょうか。
 私ではない誰かが、本気に信じているからです。
 つまり、信じているふりをするということは、本気に信じている他者の存在を前提にすることであり、その意味では、その信じている他者の世界の中に身を置くことなのです。

 私自身はキリスト教の教会に行く機会があっても信じているふりなどはしません。しかしたとえ異教徒であってもその信仰を尊重する態度は持ちます。同様にクリスチャンの方が私の身内の葬儀のため寺に来られたとしても、私は尊重してくださるのならそれ以上のものを求めることはしません。この互換的な相互尊重は、むしろ当たり前のものとしてあると思います。
 確かに「信じているふり」をするのと「信じている」というのの区別は外的には見分けがつかないものです。ですがこの比喩を受け容れたにせよ、若者たちがなぜ「ナショナリストのふり」をしなければならないのかそこには全く説明がないように見えます。
 そしてなによりこの「アイロニカルな没入」が窪塚洋介さんのケースをどう説明しているのかさっぱりわからないのです。

 本気で悲しんでいるつもりはなくても、本気で悲しんでいる他者を前提にして振る舞えば、客観的には悲しんだことになる。
 同じように、本気で信じている他者を前提にして行動しているとすれば、客観的には信じているに等しいのです。
 私は、こういう状況を「アイロニカルな没入」と呼んでいます。
 一方では、アイロニーの、つまり皮肉な意識をもって、冷ややかな距離を取っているのに、他方では、つまり客観的な行動の面で見れば、没入している、はまっているに等しい、これがアイロニカルな没入です。
 俗に言う「わかっているけどやめられない」という状態です。


 私の考えでは、今日の若者たちのナショナリズムは、アイロニカルな没入によるものです。
ですから、「あなたはナショナリストですか」という意識を正面から問うような質問には「いいえ」と答えますが、行動の面では、まぎれもないナショナリストとして振る舞うのです。
 ナショナリズムも、古典的なそれとは違う新しい段階に入っているのです。

 氏の『ナショナリズムの由来』講談社、2007、はわりに評判も良く買おうかなと思っていたところでした。通史的にナショナリズムをうまくまとめてあるということですし…。でもこうした説明にならない説明で、結論ありきのあやふやな話を伺った感じを受けますと、ちょっと買うのはどうかなと躊躇ってしまうのです。わりに高い書籍ですし…