移植法案と青い芝の会

臓器移植修正案 7日にも提出NHK

臓器移植法の改正案をめぐっては、15歳未満からの臓器提供を認める「A案」が衆議院で可決されたのに対し、参議院の野党の有志議員から、子どもの脳死判定基準などを1年かけて検討するとした対案が提出され、参議院厚生労働委員会で審議されています。これに対し、自民党の有志議員は、子どもの臓器移植には道を開くべきだとしつつも、「A案」は「脳死を人の死」とすることを前提にしており、国民の間に懸念もあるとして、今の法律と同じように「臓器を提供する場合に限って脳死を人の死」とする修正案を、7日にも委員会に提出する方針です。厚生労働委員会では、6日から4日連続で提出者への質疑や参考人質疑、それに医療現場の視察が行われることになっており、自民党民主党は、10日に本会議で中間報告を行いたいとしています。(後略)


 廃案になるかもしれない可能性を含め、臓器移植法修正案についてはどう動くかわからないところですが、土曜日に地元の駅で「青い芝の会」が次のようなビラを配っていました。(全国単位ではなく、県の青い芝の会の名称を使って出されていたものです)

 障害者の生存権を奪う臓器移植法改訂に反対しよう!


…私たちは今、国会に提案されている臓器移植法の改正案に、私たちの命がおびやかされているという危機感をもって見ています。
 私たちは、脳になんらかの原因があって、脳性マヒという障害になりました。脳力に価値がある現代社会では、知的障害者精神障害者も含めて、誤解や偏見が多くあります。
 よくあることですが、将来を悲観して親が障害をもった子供を殺す事件が起きるたび、世論は殺した親にスポットライトをあびせ、殺された子供は無視します。…
 それは何を意味しているでしょうか。それは障害者の命が軽んじられている証明です。
 その社会状況では臓器移植を推進している医者や政治家に、「脳死者=脳障害ではない」と説得されても、「脳死者=脳障害者」という大きな疑問が残ります。
(中略)
 移植を受けるレシピエント側にも問題があります。先日移植後1週間で死んだ赤ちゃんがテレビ映像に放映されました。体のなかに入った臓器は異物で、そのままでは拒否反応を起こして命を落とします。だから大量の免疫を抑える薬を飲み続けなければなりません。だから感染症になりやすく、ちょっとしたスリ傷でも命取りになります。それは障害とともに生きることの否定であり、青い芝が言う健全者幻想です。
 臓器移植という治療法は、価値がある命、価値無き命と分け、価値無き命を殺すという価値観から成り立っています。価値無き命をもった人間が不幸とされ、死に導く尊厳死安楽死の法制化につながります。それは第二次世界大戦のもと、ナチスドイツが行った「障害者やユダヤ人はガス室へ」という思想につながらないでしょうか。
 脳死は人の死と認め、ドナー拡大する臓器移植法改定案に絶対反対します。

 部分的に分かりづらい表現もありますが、要するにこちらの青い芝の会では臓器移植法の改正の問題をイデオロギー問題であると捉え、反対するという立場の表明と受け取られます。
 対立するイデオロギーは「命に価値付けするな」という側と「命の価値付け」側、とできるかと思いますが、私は現時点でこの日本の臓器移植問題をここにあるイデオロギー問題として語ることには賛成できません。


 今の日本の脳死基準は「全脳死説」に基づきます。「脳幹を含む全脳機能の不可逆的停止を以って脳死」と考えるこの基準の発想では、問題となるのは「生者―死者」の線引きであり、生者の価値の有無ではなく死者の価値の有無、つまり死者を生者のために利用することが適当かどうかという点が問われているのです。レシピエントが健全者幻想を持っているとするのも微妙にずれていると考えます。レシピエントにとっては健全者たらんという願いではなく、生者たらんとすることが一義的にあるからです。生涯免疫抑制剤を飲むという不自由さを受け入れてでも、とにかく生きたいという気持ちを健全者幻想とみなすのはやはり無理でしょう。


 ただしドナー不足などから脳死基準が問題とされ、それが「大脳死説」に変わるようになったら青い芝の会の危惧も杞憂とばかりは言えなくなるかもしれません。高次脳基準、「脳幹が生きていても高位中枢が死ねば、それだけで脳死を宣言するに値する」という基準が採用されれば、いわゆる植物状態にある患者、また痴呆老人や重度の精神病にある人も「死者」の線引きを越えかねない可能性は出てくると思います。
 高位中枢は「意識・認識や感情等をつかさどるもの」です。それこそ反応の有無で「意識・認識や感情等」が無いと判断されてしまえば、息あるものでも死者とされる道ができてしまうのではないかと。ただしこの場合でも、脳性マヒの患者さんたちは反応をきちんと出せる存在である以上、まだすぐには直接の「当事者」とはならないのではないかとも思えます。


 青い芝の会がイデオロギー闘争的な面をもって世の中に訴えかけてきたのは知っていますし、有効な提議であったと了解するところもあります。しかしながら臓器移植法案に絡めたこのビラは、私には勇み足としか思えませんでした。これは彼らが自分の主張を世に問う適当な機会ではないと私は考えるのです。