脳死とリビング・ウィル

 生前の意思、Living Willという言葉は尊厳死に絡んでよく耳にするタームです。延命治療の打ち切りなどを生前に書面にしておき、意志が表明できない状況に陥っても「自分の意志」を医療関係者など周囲に伝えるために書きます。
 日本でも日本尊厳死協会などがすすめているのですが、日本の場合はこれをサポートする法律がありませんので、必ず意志が尊重される(医療側が心置きなく指示に従える)とは限らないのですが。
 米国では、カレン・クィンラン(Wikipedia)の事件以降このリビング・ウィルという考えが脚光を浴び、カリフォルニア州で「健康な生存中に書いた遺言、リビング・ウィルの法律」(通称自然死法)が制定されたのを皮切りに、四十州以上ですでに同様の立法が為されています。この法律があるところでは、医療機関リビング・ウィルに従った加療(あるいは治療停止)を行うことで咎め立ては受けません。合衆国憲法で定められたプライバシー権(自己決定権)での治療停止も認められているからです。


 さてこのリビング・ウィルには臓器提供の意志の有無を表明することもあり、場合によって脳死判定が下された場合、ちょうど日本におけるドナー・カードと同じ役割も持つことがあるとのことです。
 脳死が絡む場合にのみ、日本でもリビング・ウィルが法的に認められていたということにもなろうかと思います。ところが今回の改正案では「本人の明示的な意志」がない場合にも臓器提供ができるということになってしまっています。確かに移植を待つレシピエント側にはできるだけ提供を増やしたいお気持ちはあろうかと思いますが、私はこの意思表示のラインを後退させるのはどうかと感じています。


 1991年、東海大学医学部付属病院である「安楽死」事件が起きました。多発性骨髄腫のため入院していた患者の妻と息子が治療の中止を強く要望し、病室で当時33歳の助手の医師がカテーテルや点滴を外します。さらに医師に長男が「いびきを聞くのがつらい。楽にしてやって下さい」と強く慫慂。医師は鎮痛剤、抗精神病薬などを通常の二倍の投与量で注射します。ですが容態に変化はみられず、長男はさらに「今日中に家に連れて帰りたい」と暗に要求を伝えて、結局助手の医師は塩酸ベラパミル製剤の通常の二倍量を注射、さらに塩化カリウム製剤20mlを注射します。患者が同日急性高カリウム血症で心停止したことから、この医師は殺人罪で起訴されたのでした。
 これに対して星野一正氏は次のように述べています*1

 これを安楽死事件などというのは論外です。安楽死を求めるのは、患者本人の意思がなければなりません。家族の意思だけで安楽死が認められるなら、患者はおちおち入院していられません。自分の知らないところで医師と家族が患者を殺す相談をするということだってあり得るではありませんか。ともかく患者の意思がなければだめなのです。病状が進んで末期の状態になり、苦痛も増す。そこで患者本人が安楽死させてほしい旨の文書を残すことが大切なんです。

 脳死絡みの患者、ドナー候補においても、私は「患者本人の意思」がなにより大事であると考えます。また逆に、万が一現在の脳死判定がどこか不十分なところを抱えていても、本人の臓器提供の意思があればそれを遂行すべきだとも。
 週明けの13日に採決というのは、あまりに性急すぎるのではないかと思っています。

*1:この部分は、保阪正康安楽死尊厳死講談社現代新書1141からの孫引きです