カルト?

 昨日の日記にいただいたコメントの中で、monaさんから次のようなご意見をいただきました。

 正直、所謂「村民?」があのような形で結集し抵抗する様は
ある種カルト的で実に気味の悪いものでした

 「あのような形で結集し抵抗する様」と表現されておりますので、もしかしたら現場に参加されていたのかも(それはないでしょうか?)。とにかく、私としましてはカルトのあり方と現地で修験を見聞きし伝統だと思ってらっしゃる方々とは関係ないものと考えております。そしてむしろ、この方は「宗教的なもの」が全部カルトに見えるようなそういうお考えではないかとちょっと思えました。


 カルトの定義は実は難しいものです。時代や社会背景によって、同じような内実を持っていても周囲の捉え方も変わりますし、実定的に定義づけるのは現実にそぐわないという面があります。比較的わかりやすい考えとして、竹下節子さんの『カルトか宗教か』(文春新書073)からご紹介します。

 カルトとは数名以上のグループの動き方の一つを指すもので、集団で閉鎖に向かい、その中の個人は健全な識別能力や批判能力を失っている。


 だからカルトとは必ずしも「宗教」とは限らない
 そもそも人間がグループを組んで、外界との接触を断ったり、外部に発することのできる社会的課題を与えられないでいると、新陳代謝を失って、カルトに向かう傾向がある。(中略)閉鎖されたグループは、カリスマ的なリーダーを作り出して依存するか、外部に仮想敵を作り出して攻撃に向かうか、内部でカップルをつくって安定するかなどのグループ反応を示す。
 このように閉鎖され、開かれた「生命原理」に反するグループは、一部のリーダーによって権力や金の獲得のために利用されることがある。それがカルト・ムーブメントで、宗教カルトはそのひとつの形にすぎない。
 (下線は引用者)

 私自身熊野から天川、大峰山から吉野と二度ほど伺ったことがありますが、その周辺で暮らされる方はごく普通の日本人で、とりわけ閉鎖的とか排他的に感じられたことはありません。(もっとも地理的条件で孤立していた歴史背景はあります)


 伝統を言い、その社会で古くから認知されてきた集団に対してカルトという言葉を与えるのは(その集団の価値は別として)無理な話です。カルトという語の用法からしてそれを許しません。ただ、宗教的なグループに対する盲目的な蔑称としてカルトという言葉を使われる方がいるのも存じておりますから、monaさんが用法をご存知なかったか、あるいは悪口として言われたか、そのどちらかではないかと思ってしまったというわけです。


 詳報が入らないうちに決め付けは危険ですが、今ある情報だけで臆断しますと、むしろそこに押しかけて「問題提起」とかをなさろうとした側の方がカルトではないかと私には思えます。(上記引用の下線部にご注目ください)
(ちょっと勇み足の表現でした。理由は下の方に…)


 今日は他の記事を書く予定でしたが、まずこのコメントにお答えしなければと朝のうちに書き込みました。余裕があれば、後で別記事をアップいたします。

大峰山補遺

 nucさん@白のカピバラの逆極限の昨日の記事(こちら)で、大峰山に登りたいという方に分があるという議論があり、そこにもコメントで書かせていただいたのですが、同じものをここに追記しておきます

大峰山は女性も登れますよ。というか、今大峰山と言われているのは連峰の最高峰である八経ケ岳(八剣山)で、「山と渓谷社」が、日本百名山のガイドブックにここを載せて以来、百名山病にかかった重症患者(尊称)たちは男女を問わず登っています。女人禁制なのは連峰のうち山上ヶ岳(1719m)だけで、ここが修験の道場の中心とみなされているわけです。またバランスを取るつもりか女人大峰という呼び名の稲村ヶ岳(1726m)などもありますし、山上ヶ岳に拘らないのであれば今までだって棲み分けはできていたんですよ。議論というか発想が逆転していたのが今回の問題で、登りたい>登れない>問題だという素直なものというよりは、あそこに登れない>登ってやろう>問題提起だというようなことさら騒ぎをつくろうとした向きを感じてしまうわけです。

 ですから、発想の最初が「大峰山に登りたい」ではなくて、宗教的タブーを破ってやりたいということにあったのではないかと…。広い大峰山系がすべて女性を排除しているとかいう話では全くありません。わずか一箇所だけ今なお女人禁制を唱える峰があり、そこに強行登山した方がいるということなのですよ。


 ちょっとフェアに追記しておきますと、かつては確かに大峰山といえば山上ヶ岳(旧名金峰山)を指すものでした。だから今回のニュースでも「女人禁制の大峰山」という表現がなされるわけです。でも今までも多くの女性登山者の中から「それでも山上ヶ岳に登らせろ」という声があがっていたわけではありません。

追記

 グーグル・マップで見る大峰山(こちら)

 中央上の方に「山上ケ岳」、中央下の方に「八経ケ岳」が見られます。この地図を拡大していくと、このあたりの大体の位置関係がわかると思います。女人禁制をうたうのは「山上ケ岳」だけです。

性同一障害を考えている方々の「大峰山入山」についての声

 annojoさん@AnnoJobLogの11月3日、4日あたりのコメント欄での白熱したやりとりは興味深かったです。ちょっと煽りに来たような方もちらほら見受けられますが、まさに今回の行動を起こした方々に近い人たちの生の声(賛否両論あり)が伺えて、そこらへんが一枚岩みたいでないのにちょっと安心です。


 ※少なくとも誤解を与えそうな「登山をはかった人たちのほうがカルトでは?」という上の方の発言は取り消しておきましょう。彼らと賛同する方々の中にも、お話ができそうな方もおられると思い直しましたので。


 それはそれとして、こちらのannojoさんが9月28日の日記で紹介されている「女人禁制シンポ」なるものの記事を読みまして、やはり山上ケ岳は象徴的に槍玉に挙げられているなあと思った次第です。

[ニュース]性同一性障害の視点も-9日の女人禁制シンポ


   世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された天川村洞川の山上ケ岳(通称大峰山)を題材に9日、奈良市で開かれるシンポジウム「女人禁制のゆくえ」(大峰山女人禁制の開放を求める会主催)で、トランスジェンダーの立場から森村さやかさん(前大阪府堺市男女共同参画市民懇話会座長)がパネラーを務めることになった。性同一性障害者の人権にも関連する提言は話題を集めそうだ。


 シンポジウムは10月9日午後1時半から、奈良市鍋屋町の共済会館「やまと」である。参加費は500円。問い合わせは主催者の松村さん、電話090(3659)****。
 (2005.9.28 奈良新聞)

もう少し大峰山の件で

 先週末から、トラック・バックやコメント等をいつになくいただいておりまして、皆さんの「女人禁制騒動」への関心が高いことを実感しております。(トラックバック等いただきました方々にはここで御礼を。賛否ありますが、どれも有難く読ませていただきました。私自身があまり自信をもって諸方にトラックバックできる方ではありませんので、このぐらいで失礼させていただきます)


 さて大峰山の件でいただいたトラックバックの中に、KUMAさん@日録のものがございましたが、日録の昨日の記事(こちら)につきましては、引用させていただこうかと思っていた箇所が実はあったのでした。それはこの件にからんでの話し合いと民主主義についてのもので、

民主主義的に話し合うというのは簡単ですが、実はとても難しいことです。異なるものが、多様性を尊重しつつ、妥協点を探ったり、共存の道を探るというのは、難しいことです。その難しいことをはじめる第一歩として、相手に色眼鏡をかけてはじめから「敵」だとみなさずに、先ずは聞いてみよう、平和的に話し合おうということが、多様性尊重の民主主義だと思うのです。


洞川にもし「民主主義」があるとしたら、宮本常一が『忘れられた日本人』で提示したような「民主主義」であって、首謀者達がこの世の中に普遍的に存在していると夢想している「民主主義」は存在していないはずである。

 という部分です。不勉強な私は宮本民俗学に暗く、おっしゃる「民主主義」にピンとこないアホウですが、山上ヶ岳に押しかけた方々が通常の意味での民主主義とか話し合いを履き違えているという感じは受けておりました。
 話し合いを申し込めばそれは無条件に必ず受けてもらえるはず、というのがまずおかしいのです。話し合いの場を作るのは、実社会でもそれほど楽なことではないと感じております。まして主張・意見が真っ向から食い違う人と話し合おうとするのですから、それは十分場を整える努力が必要なはずです。ちょっと邪推ですが、彼らは「話し合い」を申し込んで、それが拒絶されたとしても自分たちに有利になるという思い込みがあったのではないかと見ます。話し合いを拒否した方が単純に悪者に見えるだろうと、そういう甘い思い込みです。そのため、彼らにはどうしても話し合いたいという必死さが足りなかった。普通に礼を尽くし筋を通す努力がなかった…そんな感じを受けました。(ここらへんはtarataradiaryさんやantonianさんも同じように思われていると存じます)
 tarataradiaryさんの方の日記へコメントした際に書いたことでもありますが、私には押しかけた方々が「配慮のない文明国の人」に重なって見えていました。西洋の一方的な人類学的調査でかつて見られたような光景です。現地の人の価値や文化に気を遣わず、それらは遅れたものだと決め付け、上の立場の視点からエスノセントリックに見てしまうという、今ではかなりの批判にさらされているような態度です。(cf. James Clifford, Writing Culture: The Poetics and Politics of Ethnography, Univ of California Pr., 1986)


 他者とコミュニケートするという難しさを考慮しなかったというのは甘えです。民主的な方法として「話し合い」があるのは確かでしょうが、民主主義ならばどの場面でも無条件に話し合いが行えると思うのは、独りよがりにすぎるでしょう。そんなことをKUMAさんの記事を読んで考えていたのでした。