セクハラと言われずに交際を申し込むという課題

 もう悲喜劇としかいいようがありません。
セクハラと言われないアプローチは? (44歳/男性)(サンマリエの広告ページ)

私は40台半ばの私立大学教員(社会科学系・男)です。
地方の大学に約10年勤務し、しばらく土地柄になじめなかったため、恋愛する気になかなかなれず、最近念願かなって東京の大学に移ってくることができました。
現在勤務している大学に非常勤講師でこられている方(本職は近くの別な大学の教員)でこれはと思う方が見つかりました。
約10歳下の方です。その方が独身であることは知っていますが、他に付き合っている方がいるのかも、自分のことをどう思っているのかもわかりません。
もっと怖いのは、最近の大学の状況からわかっていただけると思いますが、セクシュアルハラスメント関係のことが厳しくなっています。
教職員間でも、相手や周囲に不快感を与える交際や交際申し込みは懲戒処分の対象になることになっています。
以前のセクハラ研修では弁護士さんから、教育職場では、相手が学生の場合はもちろん、教職員間でも職場での恋愛は避けるべきとの話もありました。
またその方とは所属学会も一緒で、トラブルになると学会でも問題になる危険性があります。
仮に相手が断りそうでも、セクハラで訴えられる危険性のない声のかけ方ってどんなものでしょうか?
それともそういう職場である以上、あきらめるべきなのでしょうか?
なお、私は自分の経歴に傷つけたくないので、懲戒処分(訓告のような軽いものであっても)のリスクを犯してまで恋愛・結婚するつもりはありません。
(強調は引用者)

 何と! 一つの私大でのこととは言えこんなことになっているとは…
 「相手や周囲に不快感を与える交際や交際申し込み」というものは確かに配慮の必要はあると思いますが、それこそ千差万別。ある程度の試行錯誤の後でようやく見えてくるところもあります。その客観性が薄いだけに(たとえばメールにハートマークでセクハラなどということは私には想像できませんでした)ただただ人を萎縮させる方向にしか動かないような気もするのです。


 ただ、質問の男性は真剣なのでしょうが、「懲戒処分のリスクを犯してまで恋愛・結婚するつもりはない」なんて言っておられますし、そんなに自分が可愛いなら云々とちょっと言いたくもなります。真剣さが何に対する真剣さなのか微妙にわからないというか…


 それにしてもこの教員のプライバシーにまで強く割り込んでくるセクハラ規制って何なんでしょう。
 もともとセクシュアル・ハラスメントの定義は「性的関係を目的とする雇用条件の不当利用」だったはずです。セクハラの拡大解釈と自主規制の「空気」というものは、何かとんでもないところまで来てしまっているのでは…。

「従業員が職務遂行の過程で行った行為により、従業員を含む第三者の権利を不当に侵害した場合には、使用者はたとえ当該行為を命じなかった場合でも、共同責任を負う」という「代位責任(vicarious libility)の法理」が、アメリカの判例でセクハラに適用されるようになった。
 この法理があれば、大臣が秘書に違法行為をやらせて、事件になるとトカゲの尻尾切りですませるというやり方ができなくなる。ところがセクハラ論者の手にかかると、エチケットやマナーのレヴェルと、社内教育のレヴェルと、法律上の責任問題という三つのレヴェルが混同されて、「だから男はけしからん」という話に矮小化されてしまう。
加藤尚武『応用倫理学のすすめ』)

 加藤氏の話に全面的に乗るわけでもありませんが、この間の徳島大のハートマークメールといい、自主規制の行き過ぎがあるのではないでしょうか? こういう萎縮した状況というのは、個人的にとても嫌いです。
(ただ質問者の方へ一言。同じ業界の人はおやめになった方が無難です)


 実はこの広告で、回答のほうも何だかなあなんです(一部抜粋)

まず、メールや手紙、プレゼントなど形で残ってしまうもので気持ちを伝えるのは止めましょう。
あなたとその方が(年齢的にも)上下関係にあるのであれば尚更です。
形が残ってしまうものは相手もプレッシャーを感じやすいし、何かあった時の物証となってしまいます。

 物証って…。


(※ようやく帰ってきました。リンク切れ修正しました)

はてなの父

 Maybe-naさんから届いたトラックバックは過去記事へのものでしたが、なぜ私が驚いたかと申しますと、氏の 「ラブラブドキュンパックリコ」3月29日からの一連のネタ記事「サルでもできるはてなダイアリー」を読んで、私は「はてな」で日記を書くことに決めたからです。
 言わばMaybe-naさんは私の「はてなの父」ともいうべき方(そのわりには一度もコメントしてなかったですが 笑)。たまたまとは言え、これにはびっくりです。
 コメントをちょこちょこつけるだけだった私でしたが、少し書き始めてみようと思い、どこかブログの比較記事でもないかと探していてこちらに出会ったと憶えています。
 内容を真に受けてではないのですが、洒落のめしたセンスにふと惹かれて…。
 その節はありがとうございました>Maybe-naさん。いくらかでもご恩を返せたようで嬉しいです。

好きな言葉

 さてそのMaybe-naさん、そしてもう一つTBをいただいたid:antonianさんもある意味類似の状況におられるご様子。それは先日の私にも若干重なってくるように思います。
 煎じ詰めて言えば「正義」の側から問い詰められていると申しましょうか、どうだと迫られていると私には見えます。そして私は、ここは是非とも間をあけるべきところかと考えます。


 「相手の気合をそのまま受ける手はねえぜ」(ドサ健)


 はじめに結果ありきという論調で熱くなっている方に同じ勢いで向かってもお互い痛くなるだけ。少し醒ましてからおいでいただくということが必要ではないかと思います。確信的に正義を語る方に、間を空けるぐらいのことができないはずがありません。
 もしそれができないようでしたら、熱に浮かされているか、勢いでしゃべらなければ不安を感じるのか、いずれにせよ大した確信を抱いておられるのではないでしょう。


 揺るがぬ結論をお持ちの方には、どう話しても合意を得られる可能性は非常に低いものだと思います。つまり最初から議論にはならないのです。間をあけて、少々醒まして、話はそれからですよ。

支援者と代弁者

 ある人たちを支援するという立場とある人たちを代弁するという立場、これには差があると私は考えます。
 支援するという行為は、自分はその支援したい人と立場が違うんだという認識をしっかり持ち、そこでできる限りのことをしようというものではないかと思います。参加型の政治的な運動にせよ、この範囲でこそ有効に人々を募ることができるのではないかと見えるのです。
 それに対して代弁者となる行為は、いつの間にか支援したい人たちとの垣根を忘れてしまうことにつながります。これはひたすらエスカレートせざるを得ない方向です。ホームレス支援の学生が、大学を辞め、自ら公園に住むといった例も聞いたことがありますが、これは偽物のホームレスでしかありません。どれだけ支援者の中で「義」とされようとも、それはある意味自己満足でしょう。なりたくてホームレスをやっている人はいないはずですから、そこに敢えて飛び込んだ人はどうしても同じ境位に至ることはできないのです。


 代弁者になってしまうのは人情としてわかりますが、それを行ってしまうと結局自分が支援したい人の「立場」「正義」等々を勝手に自分のものとしてしまうことになります。
 あくまで「憑依」ではなく「理解」と「共感」が望ましいと思うのです。