職業としての哲学分野の女性構成比が低いことについて

 G★RDIASで、「女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ?」という刺激的なエントリーがあがっています。お書きになったkanjinaiさんは「大学進学率が男女半々くらいになってきて、文系諸学科では女性の比率がむしろ高くなってきているが、心理学、社会福祉学言語学などに比べて、哲学は女性から人気がない。」とお感じのようですが、これに対する裏付けはどんなものでしょうか。
 ここで触れられているのは、日本哲学会の男女共同参画WGというものの男女共同参画推進に関するアンケート結果報告 (2006年3月)という公表データです。
 そのアンケート集計から工夫すればちょっとした情報が出せます

全会員1775名中、寄せられた回答は136名であった。内訳は、男性会員103名(男性会員の6%)、女性会員33名(女性会員の22%)である。

 ここから推計すると、2006年3月の時点での日本哲学会会員の男女比率は
 全男性会員 103/6*100=1717名
 全女性会員 33/22*100=150名
 およそ男:女=92:8ということですね。確かに女性比率は相当に低いようにも思われますが、まだまだ。研究職の中での男女比から、この哲学分野での男女比がどれだけ離れているかを見る必要もあるでしょう。
 なかなか適当なデータがないのですが、とりあえず初等教育・高等教育における「本務教員総数に占める女性の割合」というグラフがありました。そこのデータ(文部科学省「学校基本調査」平成17年度より)では、

小学校
校長 の 18.2% が女性
教頭 の 21.6% が女性
教諭 の 65.1% が女性


中学校
校長 の 4.7% が女性
教頭 の 7.8% が女性
教諭 の 40.5% が女性


高等学校
校長 の 4.7% が女性
教頭 の 5.7% が女性
教諭 の 25.6% が女性


大学
学長 の 7.6% が女性
教授 の 10.1% が女性
助教授 の 17.0% が女性
講師 の 24.1% が女性
助手 の 24.2% が女性


短期大学
学長 の 14.2% が女性
教授 の 33.9% が女性
助教授 の 47.4% が女性
講師 の 57.4% が女性
助手 の 85.8% が女性

 となっています。すでに大学において講師・助手(すなわち若手)の4分の1が女性になっている状況で、女性の比率が10%を切っている日本哲学会の現状は確かに寂しいものと言えるのでしょう。


 ただ、この手の問題で「ある年」のデータだけで状況を云々するというのは常に危険性が伴います。経年変化やその他のファクターを見なければ、それは時にいい加減な分析・ためにする議論ともなりかねません。
 たとえば上のデータから、「高等教育においては依然として女性参画の途が険しい」という一般的傾向を読み取ることも可能ですが、短期大学は比較的模範的に正しいと言えるのかどうか…。短期大学はほとんどすべて女子大であるというファクターを無視してその議論はできないでしょう。
 また、この構成比がどう変わってきているのかは意外に重要です。校長や学長に確かに女性は少ないのですが、普通に想像するにそういう管理職は高齢の方が担っています。若手で女性比率が高ければ、それは徐々にこうした管理職・上級職へ比率が移行していくもの。男女共同参画政治的に正しいとされてからどれぐらいの時間が経過しているかを考え合わせる必要もありますし、どう考えても「三分の二」が女性教員である小学校でいつまでも女性管理職が2割程度でいられるはずもないです(もしそういう比率が固定したら、それは明らかに女性参入が阻まれているとみなすことができるでしょう)。
 さらに、高等教育のところでは男女の大学院進学率なども一緒に考えなければならないはずです。大学の教員には修士が最低でも必要という具合にだんだんなってきていますから。


 ここに「学校種類別進学率の推移(第32図)」というグラフがありますが、ここから読み取れる男女別の大学院進学率は次のようになっています。

昭和40年度 男 4.7% 女 1.9%
昭和45年度 男 5.1% 女 1.5%
昭和50年度 男 5.1% 女 1.7%
昭和55年度 男 4.7% 女 1.6%
昭和60年度 男 6.5% 女 2.5%
平成2年度  男 7.7% 女 3.1% 
平成7年度  男 10.7% 女 5.5%
平成12年度 男 12.8% 女 6.3%
平成17年度 男 14.8% 女 7.2%

 このデータから言えるのは、現時点で大学の(理想とされる)教員の男女比は1:1が最終的な均衡比率ではなく、2:1がそうであるということではないでしょうか? まあもちろんその2:1の比率を考え合わせてみても、哲学分野での女性の比率は少なすぎるということは言えるでしょうけれど…
(※上に挙げた二つのデータは、男女共同参画白書(概要版)平成18年版の「第1部 男女共同参画社会の形成の状況 第8章 教育分野における男女共同参画」からとってきたものです)


 他にも考慮しなければいけないものに、それが果たして男女とも正常にかつ等しくインセンティブが働く職業かということなどもあります。もしそういう職場ならば、旧弊なおやじが一定比率いようとも「いつか」男女比が均等になるということは期待できるのではないでしょうか。男女比が五分の求職のプレッシャーがあるとすれば(大学教員でしたら男女比が2:1のプレッシャーでしょうか)、それにいつまでも抵抗できるものではないものと私は考えます。
 どうしても一定比率以上男女比が変わらない職場・職種があるとすれば、それは「頭の古さ」「女性蔑視的考え」以上に「他のファクター」が働いていないか考える価値はあると思うのです。
 たとえば思想系の大学教育、あるいは職種としての思想系の教員というものにちゃんとした魅力がなく、ただでさえ比率が低い女性が他の分野に偏在していってしまう…というのは考えられないでしょうか? きちんと他のものと伍すだけの魅力があって初めて、そこに女性が多いとか少ないとか言えるのではないかと、ちょっと思いました。

哲学分野の女性構成比が低いことについて(続き)

 大学設置基準の大綱化以降、多くの大学の教養課程は大なり小なり変容もしくは縮小の過程にあるものと思われます。それは決して望ましいものとは思われませんが、たとえば「教養の先生」が退職された後の枠を埋めなくなったとか、いくつかの教養科目を「非常勤職」で賄うことにしたとか、そういういじましい噂が聞こえてくるのは事実です(何といっても経費としては固定的な「人件費」が一番大きいものでしょうし…)。また私の知る規模の小さな大学での話ですが、今年度の教養課程の語学選択で「仏語を取る人が一人もいなかった」という事態になったとも伺っています。


 教養課程の科目になっていた学問分野自体が(まともな職業として)退潮傾向にあったり、その中でも流行り廃りがあったり、そういう寂しい状況は実際にあるでしょう。その分野へ進学するという希望を持った人たちにとっても、普通に職業としての魅力があるかどうかで進路を決定するという合理性は働きますし、それが人の集まる分野と集まらない分野を決める一つの要因となることは想像されます。


 また、それぞれの学問分野の面白さ(というよりアピール度かも。どれだけ興味深く思えるか)というのも重要なポイントでしょう。これにも流行り廃りはありますね。ある時期は「独文」なら食いっぱぐれがないと言われたり、「心理学」に多くの女性が集まったり、「環境」(関連)に将来があるように思われたり…。


 もちろん何か内発的な、やむにやまれぬ動機で茨の道に進む人もいらっしゃるのですが、総体で見れば合理的な判断やキャッチーな誘引があったりして「進路」は決まっていくものだと思われます。その両面からしても、思想系というのは「魅力ある分野」と言えるでしょうか?


 そして敢えてそういう分野に志したいと思う人たちの中で、どこまでチャレンジャーとしてやっていけるかを考えた時に、女性には不利な要素が多々あるように思われるのです。これは文系・理系はあまり関係のない話だと思います。先の見通しがあまり立たないところで、他のバイトなどにも手を染めながらいつまで待てるのか…。
 そうしたチキン・レースは男性にも楽なものとは思われませんが、とりわけ女性にとっては「年齢」の点(博士課程を終えた時点ですでに27歳)・「生活」の点(最初は親の援助も得やすいけれど、結局は自活しなければいけない)・「就職の見通しの点」(現在の男女比がそうそうすぐに変わるものではない>ますます不確実)などで大変なのです。


 それが普通に「職種」として魅力ある分野で、男女に等しく開かれているのならば、志望者の求職圧力によって男女の構成比はだんだん変わっていくものだと思います。それはすでに小中学校の教諭の女性の割合といったあたりに出ているのではないでしょうか。未だに管理職に女性が少ないという印象ですが、これが10年後20年後に今のままであるとは考え難いです。(ある職業分野の男女比というものが、一朝一夕に変わるものだとは私には思われません。少なくとも一人の人が就職してから退職年限を迎えるのに40年ほどかかるのを鑑みても、普通に20年やそこらは変化し始めてからでもかかるでしょう)


 身も蓋もない言い方かもしれませんが、昔はともあれ、現在の「職業としての」哲学分野の女性構成比が低いことについては、私は選好・志向の問題である以前に職業的魅力の問題、そしてアピール度の問題などが影響しているように思えます。アピール度と言えば、kanjinaiさん御自身が倫理学に見切りをつけて新分野の開拓に乗り出そうとなさっているぐらいではないですか。古色蒼然たる思想系がどれだけアピールできているか、それはたとえばアップトゥーデイトな社会学系の分野に比べてはっきりしているように見えるのですが…。(それこそサルトルみたいにワイングラスを持ちながら「これで現象学が語れる!」とかやってみせる先生が多くなればいいのに…とは思います)


 G★RDIASの先の記事で御紹介の日哲のアンケート結果(リンク)ですが、こちらの「1.1 日本哲学会における女性会員の比率の低さは何を反映していると思いますか?」という質問への「その他」の回答がとても興味深かったです。
 なんとなくそうかもと私が思えたものは、大体次のものでした

・そもそも哲学を学部時代や大学院で専攻する女性がきわめて少ない。  女


・よくわからない。ただ、事実として女性が少ないため、女性が哲学をこころざすことをためらうということはあるはずである。  男


・『白書』の示す全学会の「平均値」との比較にはあまり意味がないと思われます。この場合に比較材料として必要かつ有益なのはむしろ欧米やアジア近隣諸国の哲学系学会における男女比の情報ではないでしょうか。そうした情報が提示されることを強く望みます。また選択肢にあるような「偏見」や「学会体質」の存在がしばしば語られますが、それらは哲学の学会(学界)に特有のものなのか私には分かりません。哲学はもとよりどの分野においても、優れた女性研究者は、そうした「偏見」や「学会体質」について語ることを色褪せたものにしてしまうほどに第一線で活躍しているように見えます。  男


・女性自身の動機づけのなさ。  女


・他領域で活躍している女性研究者を誘える視点のアピール不足。  女


・女性が研究者となるのを困難にしている社会のあり方(女性にとり、研究者になるなら出産・育児が多難になることを含む)が、女性研究者の絶対数を少なくしていること。  男


・女性が大学院に進学しない・できない大学の環境要因。哲学系大学院の女性院生の比率は調査されましたか?ぜひ調査され、研究者の比率と比較研究して下さい。  男


・哲学研究者をめざさない女性の賢明さ。  男

 あくまでも私見ですが、後半で述べたあたりに問題があるのではないかと思っております。

メタボ

 シンドローム(症候群)というものは、もともと医学的な因果関係(病因>疾患)が明確なものでないものについて、症状の側から「何か同じ症状(群)のものがあるが、これに共通の病因があるのではないか」と推測されるものにつけられた名称だったと憶えています。
 以前は病因が明らかでないものに「シンドローム」の名称が付けられ、病因がはっきりしたものについては病名が別につけられていたはず。最近では病因と目されるものが明確になってもシンドロームと呼び続けるようになっていますが…(cf.AIDS)。


 さて、メタボリック・シンドロームについてですが、次のような記事を目にしました。
 メタボと寿命、薄い関係?自治医大が2000人追跡調査

 メタボリックシンドローム内臓脂肪症候群)の人と、そうでない人との死亡率にほとんど差はないことが、自治医科大学の調査でわかった。


 内臓脂肪型肥満(腹囲が男性で85センチ以上、女性で90センチ以上)であることに加え、〈1〉血液中の脂質の異常〈2〉血糖値が高い〈3〉血圧が高い――という三つの危険因子のうち二つ以上に該当すると、メタボリックシンドロームと診断される。


 自治医大地域医療学センターの石川鎮清講師らは、1992〜95年に全国2176人(男性914人、女性1262人)の健康診断データなどを調べ、2002年末まで追跡調査している。このデータを使い、メタボリックシンドロームの該当者と死亡率の関連を調べた。


 対象者のうち、02年末までに男性が79人、女性が58人死亡。死亡者には、調査開始時点でメタボリックシンドロームに該当した男性82人中7人、女性22人中2人が含まれていた。


 年齢や喫煙、飲酒習慣などの影響を調整して死亡率を比較すると、メタボリックシンドロームの人の死亡率は、そうでない人の1・09倍で、統計的に意味のある差はなかった。(後略)
(2007年5月12日14時38分 読売新聞)

 それでも「健康に長生き」とかいったあたりにはメタボリック・シンドロームは敵だと言えるのでしょうけど…


 それにしてもメタボについては、単純に内臓脂肪型肥満と呼称しないのにどうもすっきりしない感じが残ります。ただ単にラベリングして、メディアに強くアピールしたいと誰かが思っただけなのではないかと、上記のような記事を読めばますますそう思えてくるのですが…

パラドックス

 クレタ人はみんな嘘つきだ

 と言っていたクレタ人はもしかしたら憎々しげにそう言っていたのかも知れない、と思いました。
 日本とか日本人に対して「ひどい」と吐き捨てるように言う日本人と同じように。
 おそらく本人の主観的にはそこに逆説はないのでしょう。そう考えてみると、いろいろなストーリーが浮かんできます。