切断操作
はてなダイアリーのキーワードで出てくる「切断操作」という語には、宮台真司の著作の引用とともに「社会学の概念。共同体に特有な問題処理の作法。」という説明がついています。しかしこのタームが宮台氏独自のものであって、社会学の文脈で検討され通用している言葉ではないんじゃないかということを2年以上前に書いたことがあります。
→「帰属処理と切断操作?」
→「再考」
未だにこの印象は変わっておりません*1。
まず大元で押さえておくべきこととして「帰属 attribution」という社会学用語の用法があります。
人が、自己や他者の行動を含むさまざまな事象に対して、その原因を推測する過程。さらにそれを通じて、環境内の人や事物が持つ固有の属性、傾性(desposition)に関する推論を行う過程。言い換えればこれは、社会的な事象や行動の意味を解釈する過程であり、社会的相互作用を媒介する認知過程として、きわめて重要な役割を果たす。
人間の行動に対する帰属においてまず第一に問題になるのは、行動の原因が行為者内部の要因(態度、性格、能力など)にあるのか、外部の環境・状況の側の要因にあるのかという区別、すなわち内的帰属(internal attribution)―外的帰属(external attribuiton)の区別である。なかでも内的帰属は、その行動から行為者の内的属性を推測するための前提であり、行為者の将来の行動予測を可能にするという意味でも特に重要である(後略)
(『新社会学辞典』森田清美他編、有斐閣、1994、より)
この記述に依れば「帰属」自体は中立的な行為です。それは「自己や他者の行動を含むさまざまな事象に対して、その原因を推測する過程」であって、その推測された原因が行為者内部の要因に求められれば「内的帰属」、外部の環境側の要因に求められれば「外的帰属」と名付けられ、区別されるということです。
起きてしまった事象の原因を推測するというのは当たり前に行なわれる行為ですし、場合によってその原因が行為者内部にあったり、外部の環境・状況の側にあったりするのも(時にその双方に原因が求められることはありますが)とり立てて変わったことを言うものではありません。
ところが宮台氏の用いられる「帰属(処理)」という語には独特の意味が込められているようで、しかもそこで見られる「外的帰属」の部分には「切断操作」という用語が割り振られています。
例えば、訳がわからない事件が起こったときに、誰が悪いのか皆で考え、 コイツが悪いんだって突き止めれば、カタルシス(感情浄化)が得られます。 一般に、複雑な社会では、原因がわからないことが最も大きな不安要因にな るので、是が非でも何かのせいにする。そういう操作を「帰属処理」と言い ます。*2 ところが、しばしば原因の帰属先として「異常なもの」が選ばれます。 コイツは精神障害だとか、被差別民族出身だとか。「異形なるもの」を作り 出し、そこに原因を帰属させれば、共同体を手つかずで温存できます。普通 の生活を送っている自分たちから見ると全然違う人たちなんだという「異形」 のカテゴリーに押し込めれば、問題が自分たちの共同体の「外側」にあるこ とになり、自分たちの共同体は問題から隔離されるんですね。こういう操作 を社会学では「切断操作」と言います。 (宮台真司『これが答えだ』朝日文庫、92-3頁*3)
読み方によっては、「帰属」における「外的帰属」が「他者性を持つもの」に振り向けられる時、それを「切断処理」と呼ぶ…というようにも読めそうだということは以前にも書きました。(本当にそういうターミノロジーがあるのかどうかは不明ですが)
しかしこれは多分に「外的帰属」に対してネガティブといいますか、誘導的にそれを否定させるように書かれていると私には受け取れます。
外的要因に原因を求めることを否定的に捉えるだけならば、それはちょうど子供に「人の所為にするのはやめなさい、自分に問題があったんでしょ」と何につけ考えさせようとする親や、「あなたの心の曇りがすべて外部の悪い反応を引き出しているのです」といったような内省的な宗教的言辞を思い起こさせずにはいられません。
確かにこれが「良いしつけ」になったり「気付き」になったりする場面もあるでしょう。
しかしながら外部に本当に原因があったならばそれをどうにかするのが「妥当な」認識であり、それでこそ「正しい」処置が求められるはずです。「他人の所為にするな」とは常に成り立つ金言ではないのです。
宮台氏の言う「切断操作」が本当に問題となるのは、単純に外部に原因を求める時ではなく、内部に原因があってかつそれを隠蔽しようとして外部に原因が作られるという時に限定されます。ですから、それはとり立てて目新しいことを言うものではないと感じられるんですね。そういうごまかしは何も社会学の用語を使わずとも否定されるべきものとしてあるでしょうから。
蛇足ですが、上記引用中宮台氏が「未開の共同体」などを持ってきてする話は宗教学的には噴飯ものです。
「かつての未開な共同体では、疫病が起こったり不具が生まれたりすると、 生け贄を捧げるなどの儀式をして、問題を「聖なる領域」に囲い込み、皆で 安心するという操作がありました。僕たちの複雑な社会にも、実は似たよう な機能を持った操作があります。
むしろ未開の(というより宗教的な)共同体では、聖なる領域こそがすべての現実を基礎付ける中心としてありました。そこへ「切断」して送り込んで安心する・守るという「俗なる領域」が独在できていたとは考えられておりません。
また後段で宮台氏は「異形なるもの」を作り出し、そこに原因を帰属させるというようなことをおっしゃいますが、これまた過去に(つまり未開に)遡れば遡るほど「異形なるもの」が単純に忌避すべきものではなかったということは、宗教学を持ち出す以前に、歴史学の網野善彦氏の著作や文学の松田修氏の著作にも明らかなのではないでしょうか。
宮台氏が
…(未開社会と)似たような機能を持った操作
というように「切断操作」を説明されるならば、それはすでにこの時点で誤りなのではないかとも思われるのです。