これは…

 【写真】「加害者も犠牲者も極楽往生」
 韓国、中央日報の日本語版の(写真)記事です。

 米バージニア工科大銃乱射事件の犠牲者のための33の灯りがソウル曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿前にかけられた。灯りは死者の極楽往生を祈るもの。犠牲者らの名前と犯人チョ・スンヒ容疑者の名前も見える。

33個の石 関連記事(中央日報

 「私たちが先にスンヒに手を差し伸べていれば」

−−チョ・スンヒに手紙を書いた理由は。


2日前にもここへ来たが、特にスンヒの追慕石だけさびしそうだった。「スンヒも加害者と同時に犠牲者」という気がした。彼にも私たちのような魂がある。母にも相談したが同意してくれた。それで昨日、手紙を書いてここに置いた。今日来てみたら手紙や花がたくさん置かれていてうれしかった」


−−犯人の銃で死んだ人々と犯人をまったく同じように追慕することはいきすぎだという批判はないか。


「泥沼にはまって『助けてくれ』と叫んでも誰も来てくれず、何日、数カ月、何年を閉ざされて過ごしたと仮定してみてほしい。スンヒがそんな状況だったろう。彼を咎める前に私たちが彼に救いの手を差し伸べなかったことを悔やまなければならない」


−−犯人を許そうというのか。


「許しというものは生きている者にだけ与えられる特権だ。今、誰より苦しい人々はスンヒの家族だろう。彼らに会ったらしっかり抱いて、できる限りの助けになりたい。アメリカが彼らをかばってやらなければならない」

ポリティカル・コレクトネスが考慮されない

G★RDIASの記事「On Faith」のコメント欄のやり取りと、その中でのantonianさんの次の言葉

antonian 『日本では宗教心を確信している人はマイノリティですね。ネットなどを見ていると「宗教」に対する無知と偏見に満ちています。宗教者が無意識に、素直に吐く言葉など、他の価値を持って計ればおかしいに決まっているわけです。「復活」なんて荒唐無稽な単語は。キリスト教の人間にしてみれば「ご愁傷様」ぐらい慣習的な思考ではありますが。
(中略)
宗教者が自由に自分の宗教的価値を持って話す権利はありますでしょう。島にいると自然に自然神道的な話法の中にほおりこまれますが、気にしたことはありません。「なるほどここはそういう伝統なんだな」と感心するだけです。
(中略)
日本においては、kanjinaiさんの様な人がマジョリティであり、我々のようなキリスト教徒、或いは琉球神道、一つの信仰を保持しているものがマイノリティです。「マイノリティに配慮する」なら、「このようなことを言挙げされるのは大変に戸惑い、そして傷つく。故に配慮して欲しい」と言う言葉が返ってくる可能性もあります。』 (2007/04/22 11:26)

を読ませていただいて、結構前から気になっていたことを書いてみます。
 それは、日本の信仰者(とりわけ新宗教の成員)に対しては、政治的左右を問わずポリティカル・コレクトネスを考えろという声が聞こえてこない(あるいはとても小さい)ということです。


 この間の(特に都知事選での)選挙に関する論評などで、非常に不躾に宗教団体に属する個人に対しての偏見が語られていたように感じます。たとえば偏見がもっともひどいと思われる某ブログでは次のような記述がありました。

東京都の有権者数は10,409,199人。石原慎太郎の得票率は、全有権者の27%。…281万人か… 全国の霊友会信者数が440万?らしいから都内にはだいたい40万人くらいいるか。創価学会は今回石原慎太郎を支持しているだろうから(確認してないが)、信者数800万のうち都内が80万くらいか。立正佼成会も今回石原慎太郎を支持しているだろうから(確認してないが)信者数300万のうち都内が30万くらいか*1。崇教真光石原慎太郎は繋がっているから、信者数50万、都内信者5万くらい。これらを足すと185万。その他佛所護念会教団日本会議系の有象無象な新興宗教石原慎太郎と繋がっている。これら有象無象な新興宗教信者が都内にどのくらいいるかよく判らないが、281万票のうち、200万くらいは新興宗教団体票だと思ってよさそうだ。日本政治はこれら新興宗教により強引されている。

 この「宗教団体」が何人だからこれは○○候補に入れるだろう(もしくは入れる。入れるに決まっている)という推測は、そのまま「その宗教団体に属する個人は投票に関して自由意志を失っている(に決まっている)」と言うに等しいと考えます。彼らはそういう「操り人形」で「騙されている」のだという決め付けは、その方々の人格へのきわめてひどい侮辱です。
 もちろんこちらのブックマークコメントにもたしなめる声や非難する声が載っていて、それはそれで正気な方も結構おられるなあと感じたのですが、次のような例はどうでしょう。

 先日の知事選もわれわれフツーの市民を落胆させたが,昨日は希代の悪法「国民投票法案」が強行採決された。
 この法案の問題点は,もんのすごく短く言うと,最低投票率の規定がないために,特定政党とつるんでるわけのわからん宗教団体とかの組織票があれば一発で憲法を変えられるということである。

 これは某大学の先生のブログ記事です。ぼかしていればいいんでしょうか? 何かあからさまに「宗教団体の信者はロボットだ」と言っているようにも見えるのですが…。


 自分の専攻の関係などから、大学以降いろいろな宗教関係の信者さんたちと知り合ったりお話をする機会もありました。特に戦前から続くような古株の新宗教系の信者さんたちはそのほとんどが信者の二世、三世で、今現在組織の拡大を強く推し進めているところは多くはありません。そして彼らは彼らなりに信仰というものを考え、あるいは脱会し、あるいはまたそこに戻ってきたりして、いろいろな状況がそこにはありました。
 さらに感想を申しますと、彼らは何度となく偏見に出会ったりいじめられたりという経験を持たれてきて、普通に身構えないで話してくれる一般の人と接するとほっとするようでもありました*1。信者が多い団体とか固まって暮らせているならまだしも、一家だけぽつんとあって普通の学校に通っているような場合、特に子供に偏見のしわ寄せがきついように思われます。


 確かにカルトと言えるような宗教団体もありますし、騙されたとかお金を失ったとか職場や学校を辞めなければならなくなったという被害も少なくはありません。そういうカルトに関しては、はっきり社会的に告発すべきであろうと考えます。
 それでも「宗教」は危ないからと偏見を温存し、心無い言葉を浴びせ、あるいは信者であることをロボットであることとほのめかすような、そういう態度が存続して良いものとも思わないのです。


 私自身は「言葉狩り」レベルのポリティカル・コレクトネスには批判的です。言い換えが単なる問題の隠蔽になるだけの場合が多いように考えていますし、そこで過剰な配慮によってたとえば「片手落ち」という日本語が「片落ち」というわけのわからない語に変えられてしまうような無残なことが起きることを憂慮するからです。
 しかしながらPCが一定の成果を挙げ、弱者・マイノリティーに対する配慮をもたらし、それが無反省な層を少なくしてきたということは評価もしています。
 もともとアメリカで始まったPolitical Correctnessには「人種・民族・宗教・性差別などへの偏見を良くないものとする」政治的立場、とてもリベラルなそういう立場が反映していたはずです。なぜ日本においては、宗教の信者に対する配慮があまりなされているようには見えないのでしょうか?
 明らかにそこにはマイノリティーゆえのつらさが存在していると思うのですが…

*1:信者であることを最初から明かして話をする場合、というケースです

昨日のエントリーをあげた理由(責任論関係)

 責任というものを考える上で、私がごく最初期に意識した一つの問いがあります。それは、

 親が罪(極端には殺人など)を犯した子供は、それを理由にいじめられたり罵られたりしてもよいか

 というものです。私の答えは「罪は遺伝するはずもないので、もしクラスにそういう子がいたとしても自分はいじめないし罵らない」というはっきりとしたものでした。仲良くできるかどうかはわかりません。気が合うタイプか、向こうが私の方に興味を持つか、仲良くなるきっかけはあるかなど不確定なことが多いからです。でも少なくとも親の罪を理由に子を責めるのはおかしいと思います。
 そこから『ロミオとジュリエット』状況を考えてみたり、『忠臣蔵』のケースを考えてみたり。そこらでいろいろ責任と個人というあたりを考えた後で「戦争責任」を見てみますと、これはもう連帯責任を問われているんだなと思われました。そして、その連帯責任を受けいれるも受けいれないも自分の判断によるものと考えられました。


 自分で犯した過失や罪というものに対する責任に比べて、この連帯責任というものにはどこかうさんくさい感じがします。たとえば学校で「クラスが騒がしいから」罰を受ける場合、大勢の中の一人とはいえ自分がそこにいたのでしたら、これは連帯責任ではなく自分の責任とも考えるでしょう(たとえ自分がうるさくしていたのではないとしても)。ただ、自分がたとえばその時保健室にいた場合など、クラスの連帯責任の罰は受け入れられるものではないと思います。それを知ることも止めることもできなかった事に対して、連帯の一言、立場というものだけで責任を問われるのには抵抗が大きいからです。


 多く戦争責任論では「被害者(側)の心の痛み」が言われて参りました。なるほどそこには同情を寄せさせる何かがあります。「足を踏んだものはすぐ忘れるが、踏まれたものは痛みを忘れない」などということも盛んに聞きます。確かにそこに一定の理解はあるべきとも思います。
 ただすでに加害者・被害者の当事者の双方が大多数物故した60年後の現在、その被害者感情がたとえば「靖国神社」に向けられ、そこに加害者の象徴たるA級戦犯を祀るなという気持ちとして働いているならば、私たちはその気持ちにどう対応したらよいのかと考えるのです*1


 さてそこで昨日の、G★RDIASの記事「「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報」について書いた「加害者の慰霊」に関してです。この件についてデンバーポスト紙の元記事で詳細を読みますと、ごく素直に「いい話」「何か感じ取られる話」だと思われるのですがどうでしょう?

 The mourners gathered in front of simple stone memorials, each adorned with a basket of tulips and an American flag. There were 33 stones - one for each victim and Cho Seung-Hui, the 23-year-old gunman who took their lives.
"His family is suffering just as much as the other families," said Elizabeth Lineberry of Hillsville, who will be a freshman at Tech in the fall.


 シンプルな石の記念碑、それぞれがチューリップの花籠と星条旗に飾られたその石の前に死を悼む人々は集ってきた。そこには33個の石があった―それぞれの石が犠牲者たちと、彼らの命を奪った23歳のガンマン、チョ・スンヒのために置かれている。
 「彼の家族も、他の家族たちと同じように傷ついています」と、この秋にヴァージニア工科大に入学する予定のヒルスビルに住むエリザベス・ラインベリーさんは語った。

 ここにあるのは恩讐を越えて加害者の家族にすら気を遣う優しさであり、なかなか持つことの難しい人の包容力というものではないかと思います。加害者が死んでしまった以上その怒りにはやり場がなくなってしまうのですが、それをいたずらに加害者の家族やそちらの方に向けず、むしろ深い悲しみの同情・共感で包み込む。これは日本人であれどの国の人であれすごいことだと理解できるものでしょう。それができるかどうかは別にして。
 そしてこれは60年間も被害者意識を存続させたり受け継いできたりする態度の対極にあるものとも感じます。


 たまたま「靖国神社」の名が挙げられているのを見たとき、私の中ではそういう連想が働き、そして思ったのです。被害者感情を何より重視すべきだと主張されている方々は、この被害者感情の昇華という事例を見て何を考えるだろうかと。


 またさらに、昨日挙げた「高砂慰霊碑の件」のケースでそこに働いている被害者感情というものを正当なものと看做せるだろうか、ということも思いました。
 政治的側面は抜きで、犠牲を悼みたいという宗教感情と、その死者は加害者だから慰霊は許さぬという被害者感情の葛藤*2としてこのケースを見ますと、私たちがどうこれを考えていくべきなのか(というより私がどう考えたいのか)がそれぞれの人の心の中で様々な解を出してくるだろうなと思いまして、昨日は急遽二つのエントリーを書かせていただいたのでした。

*1:私自身が靖国問題をおかしいと思う理由はここにはありません。しかし「加害者側」として責任を問われる時、被害者感情をどう捉えるかというのは常に問題であろうと考えます。

*2:実はここにもある種の宗教感情があると思われますが

うたがいのつかいみち(解答編?)

 昨日のエントリーから、ゴフムさんの提示した疑い

 みんなは、世界はずうっとむかしからある、と言っているが、そんなことはとってもうたがわしい。もしかしたら、この世界は、おれが生まれる5分前にはじまったのかもしれない。そうじゃないっていう証拠はないのだからな。……うん、そうだ。『世界は、おれが生まれる5分前にできた』と言いはってみよう。だれか、おれのこの主張がまちがっていて、世界はもっとずうっと前からあるんだ、と言えるかな

 これに対して、ソルテスさんはどう答えたかです。

「…『世界はずうっとむかしからあった』という証拠はない。だから『世界はずうっとむかしからあった』ことはたしかめられない。ソルテスさんだって、これをみとめるほかないはずだ」
「ああ、そのようじゃね」
「よし。それなら、まけをみとめて、10タラル出しておくれ」
「おや、どうしてかな。わしはまだ、ゴフムさんのうたがいがもっともだとは言っとらんのじゃがな」
「だって、証拠はない、たしかめられない、と今言ったじゃないか」
「証拠がないこと、たしかめられないことは、なんでもうたがうのがもっともなのかね」
「あたりまえじゃないか」
「いや、ちがうんじゃないかな。そればかりか、わしたち人間は、もっとも肝心なこと、すべてのことのもとになる考えについては、証拠もなく、たしかめようもないのに、まったくあたりまえのこととして受け入れ、それにもとづいて生活していると思うのじゃよ

 ここで語られるソルテスさんの言葉の由来はいくつか考えられるかもしれませんが*1、結局のところ人は自然的態度において疑い得ない何かをもって生きているという哲学的思惟を語っているものと思われます。懐疑論者に対して、その懐疑自体の有効性を問いかけるといったところでしょうか。
 あまり全部書いてしまいますとせっかくの著作のネタバレになってしまいますし、あの面白い絵がついていなければ台無しなので、ちょっとだけこの後に続くやり取りのある部分を引きます。*2

「ゴフムさん、おまえさんが生まれたとき、年よりもいたし、子どももいただろ」
「もちろん、いたよ」
「では、『年より』とはどういうもので、『子ども』とはどういうものかね」
「そりゃあ、ソルテスさん、長く生きているのが『年より』で、生まれてからそれほど時間がたっていないのが『子ども』だ」
「そうかい。だがおまえさんのうたがいによると、おまえさんが生まれたときには、みんなまだ5分しか生きていなかったのではないかね?」
「??!!」

「本気でうたがうなら、『世界がむかしからある』という考えをまったくかんじょうに入れないで、あれこれ考えなければならん。そこでおまえさんは、今とはべつの言葉を作って話をしなければならん。だがそうなると、おまえさんの言葉はみんなに通じなくなるし、みんなといっしょに生活することもむずかしくなるじゃろなあ」
 ゴフムさんは考えこんでしまった。

 この後時間論みたいな話があり、現在とは何か、永遠とは何か、永遠と人生について考えるとかいったシチュエーションが続いて、

ソルテスさん、今の話にはまだまだわからないことがあるけど、しかしおれが何をもとめて、何をどううたがうべきなのかは、少しわかったような気がする。うたがうということは、自分自身をぎんみすることで、ひとをこまらせてよろこぶためにすることではなかったんだなあ」
「そうそう。それがわかっていれば、おまえさんのうたがい自体はとても大事なことだったのだから、わしの言ったことでおわりにしないで、もっともっと考えてよいことなんじゃ」

 という言葉があり、その後のやり取りでエンディングです。


 ここででてくるゴフムさんは結局はもののわかった人だったわけで、これがもしもっと天邪鬼な人だったらきれいなエンディングは望めなかったでしょう。やはりソルテスさんの言葉で納得しない人もいるように思われるからです。
 でもこういう議論は勝ち負けではなく、特にここでは何かを得る・気付くための「対話」が成立しています。これこそが実りある議論というもの。これをまず読んだぐらいの小学生は、今二十代半ばぐらいでしょうか。でも年齢とか関係なく大人だっていつでも学ぶことはあるし、できるんですよね。

*1:私には「根源的臆見(Urdoxa)」とか「原初的信念(une foi primordiale, Urglaube)」とかいう言葉につながるものの示唆に思われます。

*2:もし本当に興味のある方は、昨日のリンクからバックナンバーをお求めになるか、図書館などをお探しください

ある前置き

 私はエッセイとかブログの記事とかの面白さの一つは、今まで考えたことのなかったもの同士の組み合わせの妙味にあると感じています。あれとこれ、ほとんどの人がおそらく考えてもいなかったものが組み合わせられて、それが人生とか恋愛とか病気とか政治とか人間とか犬とか猫とか様々なものの新しい側面を見せてくれる。その新たな観点が開けてくる驚き・喜びが人を惹きつけるのだろうと思うのです*1
 もちろんそこには単純化・抽象化が必要となります。今まで他の人が気付き難かった比較というものなのですから、かなりいろいろなところを削ぎ落としてその上で組み合わせなければならなくなります。時には過度の単純化もあるでしょうし、的外れの抽象化だってあるかもしれません。現実は複雑だ、そんな簡単なものではない…と言われることもあるでしょう。
 そう、確かに「現実は複雑」なんです。ただその複雑さの責は「事象としての世界」に求めることはできません。それはもともとシンプルにそこにあるものです。その世界のどこを(何を)切り取って「意味」を見るか、すなわちそれが私たち個々人の「現実」なのであって、世界のどこをどう切り取っても意味が見出せてしまうがゆえに「現実は複雑」なのです。


 まあその単純化とか組み合わせが他の人の共感を得るものかどうかも大きな課題なんですが。誰かが頷いてくれるかどうかです。自分でウケていれば他の人はどうでもいいというのであれば、それは公開する必要はなくなります。それに近い覚悟はあっても、どこかでこの話に頷いてくれる人がいるのではないかというささやかな期待があるからこそ公開されているのでしょうし。


 その単純化・抽象化は違うよ、その組み合わせはおかしいよという意見の多くは、もともとのそれぞれの「現実」がかなり離れているということに起因するのでしょう。しかしそれは離れているからこそ近づける意味を多く持っているということでもありますし、どんなに自分にとってあり得ない意見でもそこに何らかの意義はあるということは言えるのではないかと思っています。

*1:もちろんその面白さのすべてがこれで言えるわけではありません。為念