人生の道半ば

 MIDWAY upon the journey of our life I found myself in a dark wood, where the right way was lost.

 ダンテ(1265-1321)の『神曲』地獄篇の冒頭です。より分かりやすい訳で

 I was lost in the dark woods in the middle of my life.
 我、人生の道半ばにして暗き森に迷い入りたり。

 というのも聞いたことがあります。

 イタリア語は現代語も読めません。これは大学の教養部の授業で(部分的に)読んだ英訳です*1。しかも一年だけで、ヴァージル(ウェルギリウス)に地獄をつれ回してもらい、煉獄にちょっと入っただけで天国へも行っていないと思います。
 断片的な記憶しか残っていないのですが、一つだけ鮮明に覚えているのは、"MIDWAY upon the journey of our life"のNOTEにはっきり"35歳"と書いてあったことです。13世紀当時のイタリアの平均寿命が70に達していたとも思えないのですが、彼らの考えの中で35歳が人生の旅の半ばとされていたことは一応考証されているのかと、そこだけ印象に残っています。


 考えてみれば、人生の道半ばというものは必ずしも平均余命の半分ではありません。時代の他の人々の人生の平均値あたりをモデルとするのは、たとえば統計値が問題となる保険などがそうですが、かなり簡略化したやり方です。もちろんそうしたモデル化に意味もありますし便利なのも確かでしょう。でもほんとうのところ考え方次第で様々な受け取り方があろうと思います。

 
 人生を旅に譬えるとしてもどこに終わりを見るのでしょう。単純に「死」を終着点とする場合もあります。でも何か「為す」ことを人生の目的にしている場合は、ことを成し遂げたところがゴールであり、あとは余生と言われるでしょう。私などはそういう人生を賭けるものを見つけておりませんので、今のところ余生はあり得ませんね。最期まで旅することになりそうです。また人生を一色で染めている方は、道半ばで倒れるというのも(傍から見れば)絵になる場合すらあります。本人はご無念かもしれませんが、そういう見方で人の人生を描いた小説なども好きですし、得難い感動を与えてくれます。


 人生の長さに戻りますと、江戸の時代には人生は今より短いものと認識されていました。杉浦日向子さんのお話では女性の結婚はできれば二十歳前、十九までにはしたいものだとされていて、二十歳で年増、二十三で大年増(おおどしま)と言われたそうです。まあ「艶っぽい」という言い方は十九以上の女性にされていたとも聞きますので、大年増=相手にされないというものではなかったでしょう。それでも女性が三十になりますと姥桜という呼称がつけられたそうで、確かに「花の命は短い」ものとされていたようです。
 ただし、江戸後期の成人の平均死亡年齢(平均余命だと乳幼児死亡率が足を引っ張ってかなり低くなりますので)はおよそ60歳だったとされていて、30歳で世捨て人になるにはまだまだ先が長すぎたでしょう…。


 身分・職制が定まっていた江戸期においては、家督を継ぎ、それを次の代に渡すことが多くの男性にとって人生の意味となっておりましたから(まあここらへんが長男でない者とか職分を持たない者にはつらいところでもありますが)、家督を渡せさえすればあとは余生。
 幾つで隠居するなどとは決められておりませんでしたから、見切りの早い者はさっさと隠居して「第二の人生」を生きていったようです。これもまた人生を折り返したと考えて生き直す例と考えられるでしょうか。

  • 伊能忠敬。酒造・米取引業を49歳で隠居。72歳で亡くなるまで測量の旅を続け『日本全図』を完成。
  • 平賀源内。高松藩士の家督を妹に譲り26歳で隠居浪人に。その後江戸で多方面の活躍。
  • 歌川広重八重洲河岸火消同心(定火消し)を26歳で引退。隠居後浮世絵師として名声を博す。


 また井原西鶴俳諧宗匠と商家の旦那を33歳で退き、その歳で剃髪して執筆活動に専念したことで有名ですが、彼の『日本永代蔵』には次のように書かれています。

 人は十三才迄はわきまへなく、それより二十四五までは親のさしづをうけ、其の後は我と世をかせぎ、四十五迄に一生の家をかため、遊楽する事に極まれり。


 若き時、心をくだき身を働き、老の楽しみはやく知るべし

 ここまで達観できるならば、人生の折り返し点を早く迎えたくなりますね。


 さて私の中ではずっと冒頭の神曲の一節がありましたので、35歳になったとき「人生の折り返し点」に来たのかなという感慨が少しだけ湧きました。その後もたいして変わらずに生きているというのが凡人の悲しいところなのですが、一つだけささやかに覚悟したこともあります。
 それは「迷ったらやってみよう」という判断基準です。どうせ一度の人生なのですから、やり残しが多くてももったいない。少しでもその気があるなら、やってみる方向で考えようということです。
 若くしてこういう人生を送られている方からすれば「いまさら」なことでしょうが、そこらで少し生き方が変わり、ほんのちょっと楽しくなったのは事実です。
 また、そこらから貯金がたまらなくなった、金遣いが荒くなったというオチもつくのですが、それはまた別の機会に…

   思へば此の世は 常の住処にあらず        
   草葉におく白露 水に宿る月より猶あやし     
   金谷に花を詠じ 栄花は先立つて無常の風に誘はるる
   南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲に隠れり 

   人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり 
   一度生を享け 滅せぬもののあるべきか 
   (『敦盛』)

*1:でも一冊買わせられました。"THE DIVINE COMEDY", Classics in English Translation, First Series V, TSURUMI SHOTEN, 1983