妊娠中絶についての生命倫理学的議論

 昨日の日記に関連して、生命倫理的な線引き問題の一つの例として、人間の人工妊娠中絶に関する倫理的議論はどうなっているのかというところを記しておきたいと思います。


 人工妊娠中絶についての議論で中心的な論点となるのは、煎じ詰めれば次の二つのことです。

 1.胎児は人間であるのか(>人間はいつから人間となるのか) 
 2.道徳的権利の主体は誰か(>胎児に権利があるのか母親にあるのか) 

 これに対して三つの立場、中絶を禁止すべきとする保守的立場、中絶は自由に行えるとするリベラル派、中絶に関し全称肯定も全称否定もしないという中間派の三つがあり、それぞれの主張を行っているわけです。


 中絶禁止を訴える保守的立場は特にアメリカではキリスト教の思想を基盤としていると言われますが、その議論の原理は次のように捉えられています(<ダニエル・キャラハン)。
 a. 神のみが生命の創造主である
 b. 人間には罪なき人間の生命を奪う権利はない
 c. 人間の生命は受胎の瞬間に始まる
 d. 胎児の発育のいかなる時点における中絶も罪なき人間の生命を奪うことである


 保守派の議論は論点1について「胎児も人間である」ということを巡って行われることが多いと思います。もともとのキリスト教神学的な立場からはアリストテレス、そしてその言を受け入れたトマス・アクィナスなどによる「男児は受胎から40日後、女児は80日後に魂が付与される」という言葉が長く権威を持ってきました。しかしこれは1974年のバチカン宣言で「受胎の瞬間からすべての権利を完全に備えた人間が誕生する」と公式に(カトリックとしては)改められています。
 宗教的な議論を離れたところでも、「精子が人間に成長する確率は2億分の1以下、受胎後の自然流産の確率は2割。従って遺伝情報を獲得した受胎後の新しい生命は、客観的にもそれ以前の存在と区別された人間と考えられる」というような議論が保守派にはあります。
 また論点2については基本的に胎児の道徳的権利を重視するのですが、母親の生命が危険にさらされている場合の治療的中絶においては議論は分かれます。「母親の救命という善なる目的のためでも胎児の殺人という悪しき手段は浄化され得ず、直接的治療的中絶は誤り」とする主流派に対し、「治療中絶の直接・間接の意図の区別は無理であり、母親の生命の尊厳を守るという行為として治療的中絶は容認されるべきである」とするプロテスタント神学の立場もあるのです。


 中絶は自由に行えるとするリベラル派の立場、その方向性は、「大多数の人は重い障碍や耐え難い肉体的、感情的、知的なハンディキャップに苦しむことのない子供の方を育てたいと思うだろう。もし嬰児殺しに何らの道徳的反論もないことが示されるとしたならば、社会の幸福は有意義かつ正当に増大させられるだろう」というオーストラリアの哲学者、マイケル・トゥーリーの言葉に代表されると思います。この議論の原理は彼によると次のようになります。
 a. 人格という概念は生物学的なヒトという概念とは異なる
 b. 意識経験の主体が自らの生存を欲求するというのが生存権の基本であり、自我の概念がそこに要求される
 c. 生存権を持つ人格の規定は、「自己意識要件(the self consciousness requirement)」*1である
 d. 自己意識を持たないものは、生存する権利も持たない。従って中絶および嬰児殺しは道徳的に肯定される


 リベラル派の議論は上にもあるように、論点2で「道徳的権利の主体は母親にある」とするため、その論拠として論点1に「人格基準」を適用しそれを重視する方向でなされることが多いです。ここで言われる「人格(person)」とは道徳的概念であって、道徳的問題が生じるのは人格が形成する共同体をおいて他にないと議論は続けられます。人間という言葉には「遺伝学的意味」と「道徳的意味」とがありますが、人格基準においては「生物学的な種の成員としての人間(ホモ・サピエンス)」と全く弁別された「道徳共同体の一人前の成員としての人間」というものが重視されるのです(<メアリー・アン・ウォレン)。
 この「人格」の特徴は ①意識、特に苦痛を感じる能力 ②問題解決能力としての理性 ③単に強制されたり、本能的に行為するだけではなく、自分の意思に基づいて行為できること ④コミュニケーションの能力 ⑤自我の概念と自己意識です。これらの特徴を備えてはじめて人間は道徳共同体の一員となることができ、十分な道徳的権利を保証されるという議論ですから、逆に言えば胎児はこうした特徴を欠くということになります。
 よって中絶の問題においては、生存権をはじめとして胎児の道徳的権利を考慮する余地はなく、そこに残るのは母親としての女性の権利だけという帰結がここから出てきます。リベラル派にとって、中絶の禁止は母親の自由な自己決定権の侵害なのです。


 どうにも両極の立場の議論がエスカレートしている感があり、どちらも無条件に肯定し難いように思われる方も多いのではないでしょうか。その中間派としてある立場はやはり極端なポジションは取れないと判断した方々の意見であり、その様々な立場を総称して中間派と言っているだけで、一つのまとまった思想的立場ではありません。共通項は「中絶に関し全称肯定も全称否定もせず」というところだけです。それでも大きく三つほどの流れがここにはあるように見えます。
 まず、線引き問題に対する多種多様な提案という形で解決を図ろうとするもの。ここでは胎児の「母体外生存可能性」の発生における線引きで、中絶の可否を考えようとするものが多いです。他に脳死の概念にあわせて、「機能可能な脳が獲得された時点」に基準を求めるものなどもあります。
 次に、中絶問題を母親と胎児の権利の衝突として理解する意見があります。でもこの議論はやはり、胎児の生存権を重視するものと、女性の身体の支配権を強調するものとの両極の意見にある程度引きずられている感があります。
 また、道徳体系を支える感情に注目する議論もあります。ジェーン・イングリッシュらの論がそれで、
 a. 人格の概念には単一の基準は存在しない。よってそれのみによる線引きは適当ではない。
 b. 「人格でないもの(non-persons)」も道徳規範でそれなりに尊重される場合がある。
 c. 道徳体系を機能させるのは共感や憐れみや罪悪感といった道徳感情である。

 といったところに論点が置かれています。
 この道徳感情の側面を考えれば、道徳体系は「人格には似ているが人格ではないもの」の扱いに一定の制限を課す必要がある、となります。人格には許されぬ仕方でそれを扱うことを認めるのは、道徳体系の基礎を成す一連の共感や態度を崩壊させかねないという危惧がでてくるからです*2。それゆえ、胎児と子供の類似性は看過できるものではなく、身体的同一性は人格の同一性にとりきわめて重要であり、妊娠初期の胎児の中絶と妊娠後期の胎児の中絶は身体的類似性の観点からみて、同列に論じられるものではない、というような結論がここから出てきます。
 私は、リベラル派の人格基準を批判しつつその補完をなすといった感じの、この最後の説に最も共感的です。

*1:経験や他の心的状態の持続的主体としての自我の概念を有し、自らをそうした持続的主体と信じている

*2:たとえば子猫を殺すのを安易に許すような行為はこの「人格には許されぬ仕方でそれを扱う」にあたるように思います